霊的な場所というのは、それなりに能力のあるものなら肌で感じることが出来る。 八百万の神をもってしても祓うことの出来ない醜悪な悪鬼たちは、いつも闇に潜んでいる。 古い屋敷というのはそれだけで、長年住みついた人間の情念が宿る。 精気を餌とする奴らの格好の棲家でもある。 今回の依頼はこの屋敷の中にある古井戸の御祓いだ。 だがシドは今、目の前に現れた屋敷の女主人の醜貌しゅうぼうに思わず閉口していた。 年齢よりかなり無理のある派手な身なりで見る者を嫌悪するくらいの風体なのだが、彼女にそれを諫言する者も咎める者もいないようだ。 それでも似合えばまだしも、薄紅に黄色や橙の派手な色使いの小花が散ったオーガンージーの透けたワンピースは年齢不相応などという段階ではない。 殆ど視覚の暴力だ。 老いると赤などの原色系の色を好むという説もあるが、それでも品格があれば許せる範囲というものだ。 まして外見だけでなく根性も相当なもので、御祓いの料金を散々値切ってきた。 家中の宝石を身に着けているんじゃないかと思うくらいジャラジャラと、やたら派手に着飾っている風体は金に困っているとは到底思えない。 元来金持ちはケチだと黄泉の番人の聖が陰口を叩いているのを思い出した。 「でっ! どうなの? 本当に悪霊とかいるんでしょうねぇ〜 適当に誤魔化して金だけ踏んだくるって心算じゃないの」 口汚く罵っているのがその風貌から性格まで最悪のここの女主人である四之宮照子(しののみや てるこ) 「そう思われるのなら‥ここはこのままにしておきましょう」 流石の俺も堪忍袋の緒が切れ、そう口にした。 すると女主人は傍にいたお手伝いに甲高い声で怒鳴った。 「ちょっと! 何よ! やっぱりいないんじゃないの! これだからこういう輩はっ! 青山さん呼んで!」 「は、はい」 主人の剣幕に慄くお手伝いは、即座に返事をすると異様な速さですぐに屋敷の方へとって返した。 「それでは‥ もう用はないようなので‥」 非常識極まりない老女の相手にうんざりしながらその場を立ち去ろうとした。 すると老女は、更に大きな金きり声で、 「待ちなさい! 逃げるの? 都合が悪くなったら‥これだから‥ちょっと! 謝りなさい」 と、のたまわった。 「はぁあ〜」
(何の冗談だ‥このくそババア‥謝れだと‥)心の中で毒づき、 「おっしゃる意味がわかりません‥ご依頼があったのでお伺いしたまでの事。実際住んでおられる方が必要ないと言われれば、私どもの成す事はありません」 シドにしては珍しくホ・ン・ト〜に珍しく、余所行き言葉で懇切丁寧に答えてやった。 「んっまぁ〜 やっぱり嘘臭いと思っていたけど、思った通りね‥まったく」 「青山も碌でもない者を紹介してきて! 私がお友達との観劇のお約束を反故にしてまで時間を割いたというのに‥冗談じゃないわ‥この無駄にした時間をどうしてくれるの!」 相変らずの剣幕で捲くし立てるくそババアの罵詈雑言にいい加減うんざりしていた。
(信じらんねぇ〜 こっちが出張料請求しても可笑しくないってのに‥どういう神経してんだぁ〜)開いた口が塞がらない。
遠くからジャリジャリと玉砂利を踏みしめる足音が聞こえてきて、先程のお手伝いと血相を変えた青山氏が戻って来た。 先日、我が『美食くらぶ』こと、万相談承り業務の一つ『御祓い』へ依頼してきた青山氏だ。 勿論、こんなくそババア相手だとは聞いていなかった。 こちらも事前のリサーチが甘かったのだろうが、この案件は担当事務局からの霊魂回収の依頼の一つだった。 だが流石に住人のいる地での仕事は難しく、こういう場合は既にこっちの人間にも何らかの障りがあるのが常で、通常は御祓いと称して始末する事が多い。 シドにすれば別にこんなくそババアの承諾なんぞクソ喰らえなのだろうが、後の始末が色々面倒なのでいつもの手順を踏んだのだった。
(こうなったら屋敷の一つくらいどうでもいいか‥特定地域による天変地異とかで吹っ飛んだ事にでもして‥) そう思い開き直りつつあった。
相手が中級クラスの代物だといくら手順を踏んでも、屋敷の一部は損傷するかも知れない荒行事だ。 そうなれば、主が黙ってはいないだろう‥悪くすると損害賠償で訴えられかねない。 現世でのそんな揉め事は益々面倒な事になる。 関係各位に幻術を掛け捲らないといけなくなるのだ。 (あーぁ、マジ面倒だぜ‥これなら佐賀の方、先に済ませとけば良かったな‥) シドは思わず愚痴り後悔した。 あっちはもう誰も住んでいない空家だったのだ。 ただ独りで始末するには大物過ぎたので、ダッドを同行するか聖にまた頼まないと取り逃がす心配があった。 ダッドは元妻の事務官に呼ばれて天界に出張中で留守で聖は睦の事もあって当てには出来ない。 (この前もドタキャンしやがって、やばかったのなんのって‥この頃益々イチャイチャしやがって、ホント馬鹿カップルだからな‥胸糞悪いぜ‥ったく) それで独りでもどうにかなりそうな中級クラスの悪霊退治を選んだのだが‥。 案件を一つでも減らしておかないと、今年は天変地異の年回りなのだ。 先月も地震で多数の犠牲者が出て、シドもダッドも浮遊霊の対応に追われた。
(あー、俺も睦みたいな助手が欲しいよ‥ったく‥) シドは思わず本音を漏らした。 式神や鬼神といった手下を持たないシドは、一人何役もこなしている。 元は何匹かいたのだが、ダッドが上司として赴任してくると逃げるように去っていった。
(あの人の霊圧は並じゃないから‥もろ影響受けちゃうんだよな‥) だが、こうなるとやはり手下が欲しいと切実に思うのだった。 それもこのババアを手玉にとるような凄腕の奴。 そんな訳ですっかり出直す心積もりでいたシドに、 「志度さん、どういう事でしょうか‥お願いしました御祓いの方は?」 そう切り出したのは青い顔をした青山氏だった。 「ああ‥どうも依頼主の四之宮様とは見解の相違があるようです。申し訳ないですが他を当って下さい」 「見解の‥相違?」 怪訝な顔で青山氏は確かめるように反芻した。 「そうよ! 悪霊なんていないっていうじゃないの! 全くこんな詐欺に引っかかって‥本当に顧問弁護士が聞いて呆れるわ」 そう誰彼構わず悪態をつく主に、青山氏はその見解の相違とやらが理解できたようで苦虫を潰したような顔になった。
(あーあ‥眉間に皺だよ‥この人も大変だな) その形相で常日頃の苦労が窺えた。 「それでは四之宮様が言われるように霊の仕業ではないという事でしょうか?」 「いえ‥りっぱに霊障が顕れていますよ‥あくまで私の見解ですが‥」 シドはそう言って苦笑した。 「でしたら!」と、身を乗り出すように訴える青山氏に、 「しかし眉唾物と言われてしまっては‥‥御祓いという無形のものでは立証することもできませんからね。やはり信じて頂かないと‥」 韻を含ますように語尾を途切れさせた。 「ああ‥」 青山氏は落胆の色を隠せず大きく溜息をついた。 そして何かを吹っ切るように、 「分りました‥御足労おかけいたしました」 そう口にすると青山氏は深々と頭を下げた。 「いえ‥お力になれずに済みません」 シドも頭を下げ互いに社交辞令の範疇の遣り取りをしていると例の女主人が割って入ってきた。 「青山! なんでお前が謝るのっ! 謝るのはそっちの胡散臭い輩の方だわ」 そう口を挟んでこられ、流石のシドもキレタ。 ブチッと‥それも一番太い堪忍袋の緒が! 「それはどうも大変失礼致しました。奥様におかれましては貴重なお時間を割いて頂きまして‥誠に申し訳ありませんで・し・た」 嫌味たらしく言うとこれ見よがしに深々と頭を下げて謝罪した。
そして叩頭して死角になったのをいい事に、 (うるせぇんだよ! このくそババア! 今に見てろ、こんな屋敷吹っ飛ばしてやるっ!) シドは心の中で悪態つきまくった。 二人のバトルに益々顔を青くして、青山氏はおろおろと所在無く立ち竦む。 シドは頭を上げるとババアの顔を見るのもうんざりとそのまま踵を返した。 ふと、自分の足元にじゃれつくマルチーズに気が付いた。 「まぁ〜 ジュリちゃん そんな所にいてはダメ、こっちにきなさい」 ババアは気色の悪い裏声で愛犬を呼び寄せた。 だが何度呼んでも何かに怯えるように傍に行こうとしない。 さもありなんと理由を知っているシドは最後に忠告してやった。 「おい‥ババア〜 しつこいと咬まれるぜ」 その暴言に絶句し怒りに青筋をオッ立てて喚き散らす声を背後に聞きながらシドは屋敷を後にした。
丑三つ時‥ 闇に乗じて悪事はなされる。 事は急を要するという訳でもないが、奴はすでに井戸にはいなかった。 女主人という絶好の憑代を見つけて、どうやら乗っ取る心算らしい。 元々のババアの人格も似たようなものだろうが、明らかに尋常ではない邪気を撒き散らしていた。 事務局からの報告書では、現在の持ち主である四之宮家が移り住んだのは明治になってからで、地縛霊の発生当時の屋敷の主は須坂藩小国の外様大名だった。 藩主である堀家の江戸詰めの時の屋敷で、今から二百年以上前の話だ。 その当時、恨みを残したままこの井戸に身投げした者がいた。 それが誰なのかまでは不明だ。だが中級クラスの地縛霊からすると大した身分でもない腰元あたりではないかということだった。 だが長年の滞留が奴に憑依の力をつけさせたらしい。 取るに足らない低級の地縛霊だった筈が、どうやら人間どもの情念を餌に進化したらしい。 しかし頭隠してなんとやらで、所詮小物の器だ。 上手く息を潜めて隠れている心算だろうが、あんなに邪悪オーラ垂れ流しではバレバレだ。 人間は上手く騙せても、第六感のある獣どもにはお見通しだ。 (あのマルチーズ‥足元にじゃれついたように見えただろうが、実のところ俺に救いを求めてきたんだ‥無事だといいが‥) あの小動物の姿がチラつく。 高い塀をなんなく乗り越え、足音もなく地面に降り立つ。 静まり返った屋敷の一箇所から邪悪で醜腑な空気がとぐろを巻いている。 どうやらそこがあの女主人の寝所らしい。 気配を消していても奴には既に俺の存在が知れているだろう。 昼間は憑代のババアを使って上手く俺を追い出したが、こっちの正体は先刻承知しているだろうから用心するにこした事はない。 どんな能力があるのか未知数だが、荒行事になる事は覚悟の上だ。 古い屋敷の造りからか、ガッチリ閉められた雨戸前までくると、
べキッ! メキメキ! バッァアン!!
目の前を爆発音のような大音響で雨戸が粉々に砕け散った。 勿論、シドの仕業ではない。 雨戸の破片を避けるように後退ると、「やっぱり気付いてやがったか‥」派手な出迎えに思わず毒づく。 「前戻ってきやったか! 小童こわっぱめ!」 地の底を這うような韻を含んだ声音が、闇の中より響き渡る。 「黙れ外道! お前から小童呼ばわれされる覚えはないっ!」 夜陰に隠れその正体を明かさず、声だけで威嚇してくる奴に罵声を浴びせる。 「猪口才な! そなたなどわらわの敵ではないわ!」 その口調で時代背景からこの悪鬼の大凡の見当がつく。 「相手になるかどうか、確かめてみろ ‥隠れてないで出てこいっ!」 シドの挑発に乗るように醜腑の中から現した姿に‥
(はぁ〜) 思わず顎が落ちそうになった。
「婆さん‥その恰好‥」 シドは情けない声音を発すると目の前の醜い物体に怒気が一気に萎んでいく。 昼間の派手な恰好が可愛く見えるほどの代物だ。 老女はあろう事かシースルーのネグリジェ姿だった。 微かに透けて見える派手な花柄の下着は、肉が足るんで見るからに不恰好だ。 「どうした‥わらわに恐れをなしたか‥」 そう明後日の寝言をほざかれ、 「抜かせ! よくも婆さんにこんな恰好させやがってぇー」 怒鳴ると同時に地面をけり、弾丸のように奴の胸倉目掛けて飛び込んだ。
バンっ!
「うっ!」 強い衝撃で弾き飛ばされ、ひらりと地面に着地する。 (こいつ防御出来るのか‥)
侮っていた訳ではない。だが正体が分からぬ進化系は実に厄介だ。 中級クラスと分っていても、中には戦闘能力は上級並みという輩もいるからだ。 防御が出来るというそれだけでも充分厄介な話だ。
(くそっ‥どこから切り崩すか‥それより婆さんから切り離さないと‥)
一体化されていたのでは、生身の婆さんまで傷つける事になる。 「上手く‥いくのか?!」 シドは思わず一抹の不安を口にした。 が、やるしかないと開き直る。 そして印を組み、言霊を唱える。 「あんたりをん、そくめつそく、‥‥‥、あたらうん、をんぜそ、ざんざんだり、あうん、‥‥‥ うん、ざんざんだり、ざんだりはん」 最後の言霊を口にしたと同時に両手を掲げた。
パンッ!
大きく柏手を打つ。 すると婆さんは途端に力を失くしたように床に崩れ、そのまま突っ伏した。 不穏な空気が当たり一面覆いつくし、婆さんの背中から白い煙のようなものが立ち昇り、やがてそれは半透明な人の形を成した物体へと変化する。 そして婆さんからまるで衣を脱ぎ捨てるようにゆっくり離脱していった。 それなりの能力のあるものでも、それは人の形を成さず煙のままで実態のない存在でしか認識出来ないだろう。 だがシドにはしっかり人の形を成して見えた。 いよいよ人相、風体まではっきりと分るほどに姿を現す。 「やっとおでましかよ‥」 現れた女は、涼しげな目元に紫檀のように艶光のする黒髪。 衣擦れの音がしそうな幾重もの衣は金糸銀糸の贅をなした派手な衣装だ。
(はん! 婆さんがやたら派手に着飾る訳だぜ) あの老女の悪趣味なまでの派手な姿に納得した。 だが年恰好とこの女の趣味は決して悪くはない。 透き通るような肌の白さだけでこの女が当時どれだけもてはやされていたか頷ける。 それに白磁の如くの肌にも負けぬ、この人相においても現代社会でも通じる程の器量だ。 その当時のこの屋敷の主にもきっと寵愛されていたに違いない。 なんで古井戸などに身を投げる結末になったのか‥。 不思議に思っていると、 「どうした‥手も足もでぬか!」 そう逆に挑発された。 「黙れ! お前をどうやって始末するか考えてたとこだ」 強気の姿勢を崩さず、その僅かな間でも手立てを必死に考えた。
(まずは防御を打ち破らないとな‥) 奴を正面から見据えて、印を組む。 「天の父、地の母をもってこれを成し 邪魔滅却 滅せよ」 シドの翳す手の平より気概が閃光となり、奴の纏っている邪気目掛け打破する。 目映ゆい光が奴を覆いつくした。 微かな奴の呻き声ののち、光は闇に飲まれるように消え去る。 見えない防御は一瞬にして消し去り、霧が晴れたように浄化された空気に見る見る侵食されていく。 「おのれぇぇー 小賢しい真似を!」 美しい面が歪み、恐ろしいほどの形相へと変化する。 鬼面と化した姫は浄化されつつある空気を一瞬にして払拭し、その凄まじい霊圧で周りの物を宙に浮かせた。 テレビや電話などの文明の利器はコンセントごと根こそぎ引き千切られ、闇の中を花火のように火花が散る。 文机やパソコンといったありとあらゆる部屋の中の家財道具が宙に浮いていた。 それらが一斉にシド目掛けて、矢のように解き放たれる。 「臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前 結界!」 シドは退きながらシールドを張った。 強固な結界のおかけで、シドを覆った弾幕に次から次へと先程の家財道具が打ち当り大破していった。 どうにか持ち堪えたものの、最後のパソコンの破片が頬を掠め、 「っつう!」 思わず顔を歪めると擦り傷から血が滲む。 「おおー そなたの綺麗な面に‥」と奴は歓喜の声を上げた。 「喜ぶほどの事かよ! こんな傷‥唾付けときゃ三日で治っちまうぜ」 と手の甲で血を拭い、それを舌で舐めた。 (しかし不味いな‥) こんなに手こずるとは予想だにしなかった。 これでは奴の弱点を探るのも至難の技だ。どうやらこのタイプは言霊が通用しない輩のようだ。 直接攻撃の聖のような妖刀使いが効果的なのだろうが‥それも今更の話だ。 こちらの窮地が読めているのか、奴は不気味に口角を上げ妖気も駄々漏れに舌なめずりする。 「よう見やると、そなたはほんに美しいのぉ〜 殺すのが楽しみじゃ。苦悶に歪む顔はさぞや、わらわを楽しませてくれようぞ」 「へっ! 冗談じゃネェってぇーのっ!」 地面をけって上空に飛び上がるとそのまま印を組む。 念を集中させ、 「これでどうだぁぁああー」 気合の怒声とともに、手の平から無数に飛び散る火の玉。バイロキネシス、発火能力で熱エネルギーを凝縮させ自在に炎を操る。 次から次へと繰り出す炎の集中砲火、精神エネルギーの青白い炎は自然発火と違い物質への引火はない。 ただ霊圧の影響で、けたたましい音を立てて破壊されていく。
(あーあ、婆さん、怒るだろうナァ‥)
見る見る屋敷の柱や屋根、床と無残な姿を晒していく。 炎は上がらぬものの、物が壊れていく際の爆風で辺り一面、塵や木片で白く煙が立ち昇る。 微かな奴の気配はあるものの、微動だにしない不気味さに固唾を呑んで様子を伺っていると、 「つまらぬのぉ〜 こんなものかぇ〜」 と、奴の声が耳元でしたかと思った瞬間、既に遅かった。 「くっ‥」 背後から身動き出来ないよう羽交い絞めされ、喉元に腕を巻きつけ、そのまま締め上げてきた。 その腕力が半端ではない。外見は楚々とした女性でしかないのに、やはり魔物の底知れぬ力というものなのか。 シドは息苦しさから小さな喘ぎを繰り返した。 間近に迫る奴の吐く臭気に鼻が曲がりそうだ。 死臭にも似た生臭さと物の腐ったような腐臭とがミックスされ、殺人的な悪臭に眩暈がしそうだ。 「ほぉ〜 これは‥思うていたより美しい‥面おもてだけやと思うておったが、なんの玉のような肌じゃ‥」 奴の異様に長く赤々と血の滴るような舌が、首筋を辿る。 背中にゾワリと悪寒が走る。 そのまま異様に長い舌はシドの頬の傷をひと甞めする。 「よい匂いじゃ‥そちの血は、なんと馨しい‥反魂香のようじゃの。わらわの身も清まるような気がするぞえ」 奴はそのまま身動き出来ないのをいいことに、シドの唇をなぞってきた。 恐怖とも悪寒とも呼べぬ得たいの知れぬ怖気に、体が震える。 「中々色香もあるではないか‥殺すには惜しい‥どうじゃわらわの子飼いにならぬか‥夜も日も明けず可愛がってしんぜようぞ」 そう言って顔を覗き込もうとした奴の腕が一瞬緩んだ。 「けっ! だ、誰がっ! てめえなんかに触られた日にゃ〜 体中が腐っちまうぜっ! 」 そう罵声を浴びせると、奴の脇腹に肘鉄を食らわせた。 奴の小さな呻きとともに、シドの首を戒めていた腕が緩む。その怯るんだ隙に奴から逃れることができた。 これで分かった事がある。 肘鉄だけで簡単に隙を見せたところをみると、やはり言霊も精神エネルギーも無駄だということだ。 奴には直接攻撃しかない。 「おのぉれぇ〜 よくもわらわを愚弄したな‥わらわを袖にしたこと、後悔させようぞ」 背筋も凍りつくような負のエネルギーを発し、怒髪、天を衝くばかりの形相に息を飲む。 その冷徹で無表情な顔は、見る見る悪鬼の面相と化し真っ赤に染まった眼球に、怨声轟けとばかりに避けた口。 陰湿な性根の悪さは女の持つ独特なしつこさを感じる。 (だから俺は女の怨霊は嫌いなんだ) シドは少し距離を置いたところから奴の形相の変わりように毒舌を吐いた。 だがその刹那、 「ちょっ! 嘘だろ‥」 澱んだ空気を切り裂くように、あっと言う間に伸びた奴の髪がシドの足に絡みつく。 「くっ‥そぉー 斬!」 絡み付いた髪を念で打ち切ると、後退りその場を逃れるように飛び上がった。 だが足元が地面から離れる前に新たな黒髪が襲ってきた。
(おいおい‥中級クラスでこれはないだろ‥) と、悪態をつきながらもなす術もなく、みっともないが逃げまとうばかりだ。 それも間髪置かず縦横無尽に無数に伸びてくる黒髪に一々念力を使うっていたんでは埒が明かないという始末だ。 「あぅっ!」 いい加減にげんなりしたところ、一瞬の隙を突かれて腕を絡み捕られてしまった。 こうなると念も使えない。おまけに飛び上ろうとした足さえも絡め取られ、いよいよ万事休すだ。 グワッと更に太い黒髪が巻き付き、まるで手繰り寄せられるように奴の前へと引きずり出された。 またも間近に迫った奴の顔に、嫌味なほどの嫌悪感を露にすると、 「その歪んだ顔がそそるのぉ〜 息の根を止める前に‥‥少々余興を楽しむとしようぞ」 「くっ‥よ、余興だと、冗談じゃねぇぞ‥悪趣味なことしてんじゃねぇっ!」 と、怒声を浴びせる。 「ふっほっほっほ、強がりも今のうちじゃー、そなたのこの白桃のような唇から泣き叫ぶ声が聞けると思うと‥‥わらわは‥ぉお、心が千千に乱れ狂わんばかりじゃ」 能面のような顔が心なしか喜びに打ち震えているように見える。 「くそっ! 誰がさせるかっ うっ! ‥‥‥」 と抵抗しようと体を捩よじれば、それを阻止するように巻きついた髪の毛がギュッと閉まり、思わず胸を圧迫され気道が危うくなる。 それとは別に、四方八方に広がる黒髪が鋭い刃物のようにシドの一張羅を切り刻んでいく。 刻まれ、僅かに見える素肌にも容赦なく無数の切り傷を残していく。 息苦しさと刺すような痛みに襲われる。 だが奴の思惑通りに泣き叫ぶのだけは、絶対嫌だと必死に堪える。 「おや、さすが男オノコじゃのぉ〜、だがいつまで耐えられるやら‥」 意味深に口にする奴の顔が間近に迫り、覆いかぶさる。 あっと言う間に唇を塞がれた。 「んっ‥んん‥」 歯列を割ろうとするのを口を真一文字に噛締め、必死に抵抗する。 すると、両足の太もも辺りに激痛が走った。 奴の黒髪にすっかり肌を晒された上に、抉る様に切り裂かれ血渋きが上がる。 あまりの痛さに声は殺すことができても、思わず小さく喘いでしまった。その隙にすかさず舌を差し込んできた。
(くそっ! めちゃ、かっこ悪いじゃん‥) いつもなら、窮地に必ず現れるダッドの姿はない。 (今日は天上界にいっているのだ、来れる訳もないか‥。ここは一旦引き上げて、ダッドか聖に助っ人を頼むりほかない) 奴の巧みな口淫など無視し、散々好きに蹂躙させながら次の算段を巡らせた。
腕はどうにも動けそうもない。しかし幸いなことに両足は縛られずにいる。 また膝蹴りを食らわせて‥と思案していると、 「牙龍波(はりゅうは)!」 辺りの空気を切り裂くように閃光が鼻先を掠め、余韻のように波動が辺り一面轟き渡った。 シドに絡みついていた奴は紙一重で難を逃れ、遥か上空へと瞬間移動していた。 だがシドを縛っている黒髪の呪縛は解かれず、相変わらず体は宙に浮いたままだ。 どうやら助っ人が現れたようだ。 だが、それはダッドでも聖でもない。初めて聞く波動剣に思わず訝る。 そしてシドは打っ棄られたまま、遥か上空では三日月の僅かな月明かりの中を目映い閃光が縦横無尽に飛び交い死闘が繰り広げられていた。 余裕を物故いていた奴は、形勢逆転とばかりに俊足のその黒い影に追い詰められていた。 二つのシルエットが交じり合う度、大きな波動の輪がまるで月が落ちてきたように辺り一面を眩く照らす。 そして突然、甲高い声音の叫び声が耳を劈くように鳴り響き、何かが弾け散ったように散乱した。 同時に戒めていた黒髪が霧散して、宙に浮いていた体がいきなり地上目掛けて落下し始めた。 シドは地上に激突する前に体制を立て直そうと慌てて向きを変えようとした。 すると、 「先輩! 大丈夫っスか?」 そう声をかけられると同時にいつの間に現れたのか見知らぬ男に抱き留められた。 すらりとスレンダーに見えるのに、異常に発達した上腕二頭筋。 男のこの筋肉の付き方は、まさしく波動剣の使い手に違いない。 間近で見るとまだ若造で、心なしか頬の膨らみが一層幼く見せた。 ショート丈のライダースにスキニーデニム‥。
(足元のブーツってもしかしてヴィンテージモデルか) 男の洗練されたファッションセンスに、つい魅入ってしまった。 視線が気になるのか‥男は態と顔を背けた。 少し赤茶に近い茶髪は、エッジを生かしたショートヘアーで、渋谷や原宿辺りで見かける今時の若者だ。 (‥ってか‥今、先輩って言わなかったか‥) シドは今更ながら重要な事に気がついた。 ゆっくりと地上に降り立ち、男の腕から開放される。どうやら味方らしいのだけは確かなようだ。 しかし人懐こそうにこちらを伺う男を前にシドは怪訝な顔を露にさせた。 「お前‥一体‥」 シドのこの呟きを遮るように、 「俺、事務局から来ました藤木と言います。藤木篤史、アッ!‥これをカナイ様からお渡しするようにと預かってきました」 名乗った後、奴は掌を開いてシドの方へ差し出す。すると行き成り、巻物ののように丸めた古めかしいセピア色した書類が現れた。 奪い取るように手にすると、仰々しく括った紐を解いて中を確認した。 「はぁああ?」 その内容に思わず脱力したような声音が口をついて出た。 先ほどまで散々梃子摺っていた古井戸の悪霊が、実は中級クラスではなく最も難度の高い最上級クラスだというのだ。それも事務局の処理ミスによるものだとかで‥。 はっきりいって‥‥今さらだ。 だって、最上級クラスだかなんだか知らないが、目の前のチャラそうな男があっという間に片付けてくれちゃったから‥。 「なんか‥不味いっスか‥」 シドのリアクションに不安顔で覗き込んできた藤木と名乗る青年に、 「お前‥さっきの奴どうした? やっつけたのか?」 絶鳴を最後に気配がないことを訝って尋ねた。 「いえ‥まだその辺に‥俺には魂魄にする事は出来ないんで、でも一応悪さは出来ないくらいのダメージは与えたんで、心配ないッス‥」 「なんだ‥魂魄に出来ないのか?」 と最上クラスをあっさり倒しておいてと呆れる。 「はい‥事務方なんで、権限もないんっスよ。本当はこんなのちらつかせて、戦う事も禁じらてるんっス。でも様子見てたら、なんか先輩がマジやばいってーと思って‥」 「様子見てただと‥いつからいたんだ!」 タイムラグがあると言われて、シドは思わず語気を荒げた。 「いつからって‥先輩が雁字搦めになって、奴の黒髪で切り刻まれて、なんかすっごい色っぽく肌が露出ししゃった辺りッスかねぇ〜」 なんの感慨もなく間延びした喋りの男の馬鹿面を凝視しながら、シドは絶句した。 「な、なんか‥先輩‥顔怖いんスけど‥睨むの止めてもらえませんか?」 と情けない顔をした藤木に沸々と怒りが込上げてきた。 「なんで早く助けに入らないんだ‥見てただとぉ〜 てめぇー、ふざけてんのかぁ〜 ぁあ?」 思いっきし、奴の胸倉を掴んで怒鳴り散らし爆発させた。 「だ、だから、それは事務方なんで、手出ししちゃ不味いんっスってばぁ〜 もう先輩‥手、離して下さいよぉー」 「こんな立派なもん持ってて、なんで事務方なんだ!」 さっきから事務方だと連呼するこの青年のポジションに納得いかず問い詰めた。 「いやぁ〜最初はこっち系にスカウトされたんっスけど‥俺、昔から幽霊とかこの手のタイプ苦手なんっスよ、マジぐろいっすもん。さっきなんて目真っ赤だし、髪の毛伸びてくるなんて有得ないっしょ‥」 と自分の中の正当性を主張する。 「お前武道家だろう‥」 「やっぱ分かるっスかぁ〜 家が代々合気道の道場やってるんっスよ‥」 「は?‥‥‥ちょっ! 事務方って‥なんで黄泉の国の役人なんだ? こっちで死んだのか?」 「ああ‥一年前、こっちの時間だとその位っスかねぇ〜 子猫助けようとして車に跳ねられたんスよ‥でっ! 黄泉の国の通行所で止められて、スカウトされちゃったんです。なんか今少子化の影響で、魂魄の出待ちが満員らしいっスよ。輪廻転生っていうやつですよね。日本の待機魂魄が溢れてて、予定人員オーバー気味らしいっス‥」 「ああ‥らしいな」 ダッドが呼ばれているのもその案件らしい。 生まれ変わる比率は変わらないのだが、長寿予定の先進国の人間枠が極端に狭められて、定期的に排出させねばならない魂魄が、子供の出生率と死亡率が同じサイクルという発展途上国に集中したり、第一段階の虫や水といったものに強制的に転生させられているのだ。自然、摂理が崩れ、虫の大量発生や災害水害等の天変地異に繋がり、少なくても地球に悪影響を及ぼしている。 「なんか俺、特別枠だからセレクトできるらしいんっスけど、待つのやだし‥かといって適当な所で生まれ変わるのも嫌なんっスよ。それに日本への待機魂魄がそんな事になってるって聞いちゃうと俺も早く結婚して、もし女に生まれ変わったらバンバン子供作んなくっちゃって思ったんス‥」 ご大層な熱弁の割りにやけに矛盾していることに気がつき、シドは思わず苦笑した。 「じゃあー、なんで早く転生しなかったんだ。順番待ちとはいっても人助け‥いや猫助けで命まで落としたんだ。その功績で多少早くなる筈だぞ」 と黄泉の国の定義を口にすると、 「嫌ぁ〜 それなんっスけど‥思わぬ勧誘で、こっちの世界も面白そうだなと‥でもって天界って綺麗な人がわんさかいそうじゃないっスか‥」 すっかり想像の域の能天気な青年に、 「それで‥期待通り、綺麗どころ満載だったか?」 などと態と皮肉くると青年は両手を胸に当てて大袈裟に落胆した顔をして、 「‥‥単なる人種の坩堝でした‥それに腹の出てるおっさんやおばさんばっかで‥」 「ははは‥現世でいう神の領域だからな‥内面以上に外見が美しくありたいと願うのは人間の業だ‥そんなもの必要ないし、存在もしない‥常に外見を気にする欲が削げ落ちると後に残るのは素だな」 「本来あるべき姿って事ですか?」 急に真顔で真理をつかれ、思っていたより頭は悪くないと関心した。 「そういうことだ。そろそろお前が片付けた最上級クラスの悪霊を浄化しに行くか」 と長くなった話を打ち切った。 「ええーっ あれ最上級クラスだったんスかぁ〜 」 突拍子もない声とともに奴は顔色を無くした。 まぁ〜やってしまったものはしょうがない。勝手に退治したとあっては事務方での処罰は免れないだろう。 だったら理想を裏切られた天界に見切りをつけ、さっさと転生して子沢山のご大層な意志を貫くのもありだぞ‥と内心ほくそえむ。 そして散々梃子摺った奴は息も絶え絶えに、古巣の例の井戸の傍らにいた。 傍にいっても既に妖気は削がれ、体が白く膜を張ったように蛍光していた。 「手下がおったとはな‥」 と虫の息で、口惜しそうに思わぬ顛末を口にする。 「ああ‥そうだな‥俺も命拾いしたよ、まさか最上級クラスとはな‥」
やれやれこれで一件落着と安堵し、もう一つの案件を片付ける。 明日からも予定が詰まっているのだ。 やおら傍にいる藤木の胸倉を掴むと、奴はギョっとした顔で驚いた。 「な、なんスか‥?」 と謂れのない扱いに抗議する体制になる奴を全く無視し、事に及んだ。 「え‥ちょっ!‥んんっ‥らに‥んっ‥するっ‥」 「いいから‥ちゃんと吸え‥キスくらい経験あんだろっ!」 奴の唇を貪るように口付 粗方この悪霊の素性らしきものを事務方の調べで検討をつけてきたのだが、当時を知るものと渡りをつけてもなんら情報は掴めなかった。 身なりからして相当身分のあるもののようだ。だが身分の上下に関係なく調べられない事はない。恐らくなんらかの事情で史実から抹殺されたのだろう。それなると当事者にしか分からない。 事務局での追加報告書では、地縛霊の発生当時この屋敷の主は須坂藩小国の外様大名で当時の藩主は堀直郷とある。 六代目直寛の三男で、直郷に跡継ぎである男子がなかったため従兄妹である三池藩の立花家より養子を迎えたとある。 だがこの姫がどういう氏素性かまでは記録にない。 「あんた、堀直郷とはどういう関係な訳?」 単刀直入に尋ねてみた。 「直郷とは‥懐かしい名よのお〜 我が身をかような悪鬼と化した父の名を忘れるものではないわ」 「父親! かよ‥」 驚きの声を上げると、 「闇に葬むりおって‥あの女狐め‥」 「女狐って‥」 「側室の珠じゃ! 殿の寵愛をいいことに‥わらわは父の命により江戸詰めの家老の奥田に預けられたのじゃ」 「葬られたって‥男子でもないのに‥家督争いに巻き込まれる訳? あー、でも婿って手があるか」 「おぬし、どこに目をとけておるのじゃ! わらわのどこが女子というのじゃ」 「へ?」 「わらわは敵の目を欺くため、幼い頃より女子として育てられたのじゃ」 「へぇ〜」 言葉といい、姿といい、どこをとっても姫にしか見えない事実に感心した。 「父がはばかるとあの女狐め正室を唆して、奥田にわらわを始末するよう命じたのじゃ‥」 「それで古い井戸にドボン?」 「あやつは手をくださなんだわ‥暫らくは人目を避けて奥座敷に匿われておった」 「じゃあー なんで?」 「あやつめ、わらわを手篭めにしよったのじゃ、堀家嫡男に辱めを! 出目も知れぬ母じゃとて、父は当主である直郷であるのじゃぞ」 と口惜しいと唇を噛み締める。 「それで自ら井戸に?」 「あやつめ、これから先もわらわを匿うとぬかしおった。じゃが生き恥を晒してまで、おめおめと生き永らえとうはない」 「覚悟の上ねぇ‥男子たるもの切腹とか考えなかったのかよ‥」 「この身を‥死してまであやつに触れられとうはなかったのじゃ」 なるほどと妙に納得してしまった。 人知れず井戸に身を投じた為、恐らく家老の奥田は屋敷を出奔したと思い探さなかったのだろう。 「わらわはこの後どうなるのじゃ‥地獄とやらに落ちるのかや」 「悪霊リストに載ってるからね‥情状酌量の余地があるかどうかは事務局の判断だから‥俺の役目は魂魄に戻して回収するだけなんだ」 「じょうじょうしゃく‥なんとか申すもので助かるのかや‥」 「わかんねぇーよ、とにかく浄化して黄泉の国まで案内するから‥」 「よくは分らぬが‥仕方あるまい」と、奴は静かに瞑目する。
色とりどりの光彩がまるで数多の星星を鏤めたように煌めく。 御霊は青白く浄化され、今まさに智慧の眼が開き、覚りの光に擁かれる。 悪鬼と化していてもその身の根源はどこまでも清く美しい。 欲と怒りと無知という心卑しい者の手で踏みにじられ、身は汚されたとしても精神は英霊に久しい。 明けの空、凛と澄み渡る中、小さな魂魄は遥か上空へと旅立っていった。
やれやれこれで一件落着と安堵し、もう一つの案件を片付ける。 明日からも予定が詰まっているのだ。 やおら傍にいる藤木の胸倉を掴むと、奴はギョっとした顔で驚いた。 「な、なんスか‥?」 と謂れのない扱いに抗議する体制になる奴を全く無視し、事に及んだ。 「え‥ちょっ!‥んんっ‥らに‥んっ‥するっ‥」 「いいから‥ちゃんと吸え‥キスくらい経験あんだろっ!」 奴の唇を貪るように口付けしたのだが、みるみる顔を赤くして一丁前に拒否ってやがる。 「あ、ありますけど‥いきなり‥びっくりするじゃないっすか‥」 「なんだ‥男の俺だと嫌か‥」 と拒否られる心当たりを口にすると、 「そ、そんなことはないっス‥噂以上だし‥」 「噂?」 黄泉の事務局でどんな噂を流されているのやらと反芻する。 「はい‥天界の上層部のカナイ様がその地位を放棄してまで夢中になるくらいの人だって‥」 「はあ〜? そりゃまた‥とんだ尾鰭がついたもんだ」 (これではまるでカナイが俺を追っかけて職を辞したみたいな謂れようだ) シドは不本意な噂に呆れた。 「え‥違うんスか?」 「放棄したっていうか‥まぁー、いいや‥」 そこまで言いかけて真実を暴露するのも面倒になった。 「えーっ、なんなんですかぁ〜、途中で止めないで教えて下さいよ」 と抗議してくる奴に、 「えーい、煩い! キスするのかしないのか、どっちだ? しないなら他を当たる‥」 うざいとばかりに斬って捨てた。 こうなったらマジで他をあたるかと踵を返そうとするシドを、奴はいきなり後ろから抱き留めた。 「マジでいいんっスか‥‥」 耳元で顔に似合わず低いテノールで囁かれ、シドは思わずゾクっと身体を震わせた。 そして藤木の方へ向き直ると、 「ああ‥俺をその気にさせるくらいの上等なのを‥‥頼む‥」 ここで遠慮や躊躇されても困ると、本気モードで視線を絡めた。 すると何を思ったかシドの両目を奴の手で覆い隠すと、そのまま熱い吐息が触れてきた。 柔らかい感触を堪能するようにねっとり絡みつく。 すぐに唇を開いて誘いかければ、奴の舌が侵入してきた。 あっと言う間に貪るように舌を絡め、吸い上げる。互いの唾液が淫猥な音を響かせる。 だがもっと力強く吸い付かせるように、態と舌を逃がす。 奴は焦れるようにシドの舌を絡めると力いっぱい吸い上げてきた。 中々いい具合じゃないかと内心ほくそえみ、奴の口付けを堪能する。 しかし‥鼻息の荒さからしてそろそろ不味い雰囲気になってきた。 「せ、先輩‥俺、俺‥なんかヤバイっスけど‥」 と下肢の辺りをもぞもぞしだした。 ちょっと煽り過ぎたか‥と苦笑すると、 「下の面倒まではごめんだぞ‥よし! お仕舞いっと!」 とさっさ濃厚なキスを終わらせると後方へ飛び、その身を離した。 「そ、そんな‥その気にさせといて、あんまりですぅ〜」 と股間を両手で押さえて情けない顔で文句を口にする奴に、多少の罪悪感が無い訳でもなかった。 「しかたないか‥」と、珍しく仏心を出した。 奴のところまで舞い戻ると、喜色満面の顔をした。 幼い顔だけに妙な可愛さがあって、仏心に拍車がかかった。 「今回だけだからな‥」と口にして膝を折ると、奴のジーンズのファスナーを下ろしにかかる。 すると、 「シド‥だーめ」と、行き成り後ろから抱き上げられた。 見れば、天界に行って留守の筈のダッドだ。 だがどうやらこの状況下に青くなってる奴が約一名。 どうやら事務方で噂になっているシドとダッドの話を鵜呑みにしての事らしい。 「か、か、カナイ様‥こ、これには色々と訳があって‥っス‥えっと‥」 予期せぬ人物を前に、かなり動揺してしどろもどろに状況を説明しようとする藤木に、 「あ‥君は‥いいから‥気にしなくて‥」と、いつもの柔和な顔でにっこり微笑む。 けどそれを変に深読みしたのか、藤木は真っ青な顔で口を戦慄かせた。 そんな訳だから手淫でも施してやろうかと思っていた代物は目の前でみるみる萎んでいった。 「あらら‥なんか必要なくなったみたいだそ」 と揶揄するように口にすると、 「い、いいッス‥もうご心配いりませんから‥」 米神から冷や汗を垂らし身をこれでもかと言わんばかりに縮めて、なんか益々悲壮な感じになってきた。 「シド‥とにかく‥手当てしないと‥ね」 そう口にするカナイの視線の先を見れば、シドの両の太腿から半渇きの血飛沫が滴っている。 「あー、そうだった奴に散々な目に合わされたんだった‥」 切られたり殴られた瞬間は痛みがあるものの、その後の痛みはないといった特異体質なのだ。 だから結構深刻な状態になっている事も多々ある。 「すぐに‥治療院に‥いくからね」 カナイの言葉は相変わらず流暢な喋りなのに、やる事は早い。 さっとシドを抱えあげると髪を一本引き抜く。 そのまま上空に放つのだが、一瞬何か思い出したように動作を止める。 そして先ほどから恐縮しまくりで小さななっている藤木の方へ顔を向けると、 「藤木君‥シドを送ったら‥迎えにくるから‥そこで待って‥いなさい」 といつものゆっくりペースで用件を伝えた。 「いいっス‥そんな‥一人でも帰れますから‥」 「多分‥無理だと‥思うよ‥シドに‥されちゃった‥でしょ」 「へっ?」 藤木はカナイがいっている意味が全く分かっていないのだろう。頭の周りにクエスチョンマークが飛び交っていた。 「えっと‥ね‥」 といいかけたダッドの言葉を遮るように、 「あーっ、もうーっ 俺が説明するからダッドは黙ってろ!」 「シド‥」 と情けない呼びかけは無視して、 「さっきのキスな‥わりぃー、あれ、あの悪霊にキスされたとき、体内に毒気を取り込んじまったんだ。んで、お前にそれ吸い出して貰ったって訳。わかる? まぁー生身の人間なら一溜まりもないけど‥お前なら大丈夫だろ‥」 と軽〜く説明した。 奴が驚愕に顔を引き攣らせているのは言うまでもない。 「一溜まりもないって‥俺‥大丈夫なんっスか‥」 と泣きそうな声で問い返してきた。 「うん‥三日もあれば‥多分‥じゃあー‥後でね」 ダッドはシドの話を補足すると先ほど途中で止めていた髪の毛を空中に放った。 パッとカナイ達の姿がその場から消え去る。 その瞬間、藤木の悲壮な顔がチラリと見えた気がした。 時空を飛ぶ時間はたかが知れている。なのにこの男ときたら‥。 「んんっ‥ちょっ!」 「シド‥迎えに来たんだから‥いいでしょ」 まるで褒美をねだるようにシドの唇を貪る。 「んっ‥っはぁ、はぁー」 長い口付けを引き剥がすと、大きく息を吐いた。 「天界行ってたのに‥よく分かったな‥」 「それは勿論、シドの事ならなんでも分かるから‥」 と再び口付けしようと顔を近づけてくる。 「もぉー、散々食らっただろうが‥いい加減にしろよ。毒気を飲まされなかっただけでも有難く思え‥」 と非難すると、 「私はいつでも毒気の後始末をするといっているのに‥シドったらそこら辺の鬼を捕まえて‥」 珍しく詰るものだから、シドも逆ギレしそうになった。 「あん! てめぇー、この前みたいに腹壊すだろうが‥人が折角‥ちょっ!」 いきなり強く抱きしめてこられ慌てる。 「シド‥そこまで私の事を‥」 また唇を重ねようとするダッドを両手で阻止する。 「なに勘違いしてやがんだ! てめぇが寝込んだら仕事になんねぇだろうが‥」 「‥‥けち‥」 非難がましい目をする男に苦笑しながら、 「いい加減降ろせよ‥とっくに着いてんだろうが」 シドは怒りも顕にそう怒鳴り散らす。 ダッドは渋々片手を空間に掲げると、目の前に光が差し込み、パッと見慣れた景色が現れた。 (下手に時空操作しやがって‥こんな惚けた風情だが相変わらず抜け目のない男だ) そう内心毒づくものの、どれも憎めない所業なのでシドは敢て無視する事にした。
そしてゆっくりと緑に囲まれた治療院へと降り立った。 END
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