構内を学生部のある建物に向けて歩いていると、 「翔!」 後ろから声を掛けられ振り向くともうとっくに成人の域だというのに、まだあどけない形相のがいた。 入学依頼の友人である彼は、一回り小柄で気さくな笑顔は童顔を更に倍増しする。 「なんだ、今日は授業もないのに」 「そういう翔だって‥」と微苦笑した。 「俺はアルバイトの引継ぎに学生部に顔を出し来ただけだ」 「祐二は?」 「ああ、教授に相談があって‥」 「論文か?」 「うん、締め切りに追われてて‥、教授が研究室詰めてるって聞いたから相談にいってきた」 「院には残れそうなのか?」 「うん、それもどうにか枠に入れそうだよ。そうそう、教授が翔の事気にしてたよ」 「あん、なにを?」 「どうしても院に残る気はないかって‥」 「ああ‥」 俺は津嶋教授から何度も院に残るよう打診されていた。 津嶋教授は前任の田所教授とは違い、見た目も地味で実直な性格から生徒に慕われている。 そんな信頼のおける教授に目をかけられるのは生徒として幸せな事だ。 しかし二年前、前任の田所は教授の立場を利用して俺の信頼を裏切ったのだ。 当時の田所は壮年であったが、他の教授達からみればまだ若かった。 新入生の俺は一年目はキャンパスも違い、田所との接点はない筈だった。 だが入学してすぐに目を付けられた俺は三年の先輩から呼び出され、田所の研究室に招かれたのだ。 データーの分析など簡単な手伝いだが、一年の俺にとってみれば選りすぐれた先輩達の中で高度な知識が身に付くとあって断る理由もなかった。 やがて俺は研究室へは顔パスで出入りを許され、教授から直接用事を頼まれるようになっていた。 そして事件のあったその日はいつもいる筈の研究生の姿はなく、何故か教授と二人きりだった。 別段警戒心もなかった俺は完璧に油断していた。 そして教授は行き成り豹変して暴挙に出たのだ。 だが体育会系で培った運動神経抜群な俺は逆に返り討ちにした。しかし少々遣りすぎて教授に怪我を負わせてしまった。 自業自得とはいえ怪我をした教授はこれ以上事を荒立てる訳にもいかず、俺にしても実害はなかったという事でお互いに納得付くでその場を治める事にした。 次の日から俺は研究室に行くことはなくなった。 だが運悪く同じ研究棟にいた別の研究生に見られていたらしく、あっという間に噂が広まり、学部長の耳にする事となった。 火の無いところに煙は立たぬと学生である俺までも諮問委員会に呼び出され、詰問される羽目になった。 俺は勿論あんなろくでもない教授を擁護する心算は毛頭なかったが、未遂に終った事を面白可笑しく噂されるのも面倒なので『事実無根』ときっぱり噂を否定した。 その時の情けない教授の顔は今も忘れられない。 その後、田所教授は直ぐに辞職し、別の大学へ移籍してしまった。 この事が原因かは与り知らぬ事だが俺にすれば二年から専門分野になり、嫌でも教授と顔を合わせるようになるので正直助かったと思った。 そして後任にK大より着任したのが津嶋教授だ。白髪が印象的で実に穏やかな人柄で人望も厚い。 「どうしても就職しちゃうんだ」 残念そうに言う祐二に、 「まぁ〜院まで行ってる余裕はないからな」 俺はそう言うと薄く笑った。 「そんな! 奨学制度だってあるのに‥翔の卒論、津嶋先生関心してたよ。このテーマを是非掘り下げて研究して欲しいって!」 俺の卒論は『統計学におけるコンヒューター導入でのデーター解析・統計指標への応用とECBの金融政策の戦略立案の分析でのマネーサプライの重要性と解釈について』をテーマにしていた。 津嶋先生からは何度か院に残るよう説得された。 丁重に断ったらECB関連の研究に精通している先生を紹介するといってきた。 結局それも断ったのだが‥。 「留学して向こうの研究所でPh.Dの取得もどうかって薦められたんだよね」 「ああ、そうだな‥でも俺はヨーロッパ市場だしな。祐二はGDPをテーマにしてるんだろ?」 「ああ、うん。ほら津嶋教授がアジア諸国が研究テーマだからね」 「まぁー 俺は就職先の商社でもその方向性で実践に生かせればって思ってるから」 「そうなんだ‥」 「俺の分まで頑張ってくれ。なっ?」 意気消沈している祐二に発破をかける。 「頑張れないよー。僕、翔ほど優秀じゃないもの」 と泣き言を口にする祐二に、 「おいおい、しっかりしろよ。おれらもう卒業なんだぞ」 俺は揶揄い口調で戒めた。 「うん、分ってるけど‥。あっ! そうだ翔に伝言頼まれてたんだ」 「部長があとで部室によってくれって!」 「橘が?」 「うん、相談したいことがあるって」 「わかった、了解」 そして菅野とはそこで別れた。
俺は取って返して、研究棟の奥にあるコミュニティーの校舎のある一角に向った。 元々同好会だった、パソコンサークルその名も『インストール』。 俺はバイトで忙しく滅多に顔を出さない幽霊部員だ。 祐二に誘われて入部したのだが、部長の橘ははっきりいってオタクだ。 容姿はそこそこなのだが、三度の飯よりパソコンが好きっていう変わり者だ。 部室の戸を開けようとした時だった。突然、中から女の怒鳴り声が聞こえたかと思ったら、 「別れるてあげるわよ! それでいいんでしょ! いい訳なんてどうでもいいわ!」 どこか聞き覚えのある怒声と同時に行き成り部室のドアが乱暴に開かれた。 慌てて退くと丁度ドアの影に隠れるような格好になり、中から飛び出した彼女に気付かれる事もなく走り去っていく後ろ姿だけを目にした。 その一連の騒ぎに茫然としていると、 「やぁー いらっしゃい」 いつ現れたのかいきなり橘が声をかけてきた。 「ああ、あれって朝比奈?」 俺は何気に走り去った相手を確認するように問うと、 「あれ、もしかして不味いとこ見られちゃったかな」 そう言うと奴は罰が悪そうに頭に手をやり苦笑した。 「別に、見間違いかと思っただけだ」 俺はそれ以外はどうでもいいと素っ気い返事をした。 人のプライバシーなど興味はないが、朝比奈は橘の彼女として自他共に認める公認の仲なのは俺でも知っている。 それが只ならぬ様子につい口がすべっただけで興味がある訳ではなかった。 「あはっ、興味なしですか」 奴は無関心な俺を詰るように更に突っ込んだが、 「‥‥」 俺は怪訝な顔をするだけで話を無視した。 勘の良い橘はこれ以上は白けるだけとすぐに話を切り替えた。 「呼びつけて悪いね、ちょっと見て欲しいものがあって‥取敢えず中入って」 と部室へと促した。 奴は指定席のデスクに座ると既に作動しているパソコンのマウスを操作しながら、 「前から気がついてたんだけどね‥。流失しちゃたものはどうしようもないし‥‥」 と意味不明な事を喋りながらパソコン画面を呼び出している。 俺は奴の傍でその様子を静観していると、 「ほら、これ‥知ってた?」 そう言いながら見やすいように端によるとディスクトップに呼び出した画面を指し示した。 「っ!」 俺は目に飛び込んできたパソコン画面に驚愕した。 全く身に覚えのない自分の写真が数枚。中には見ようによってはエロ顔もある。 いつ? 誰が? と思っていると、 「やっぱ、知らなかったんだね。不味い画像はないようだけど‥。殆ど隠し撮りみたいだし‥。だけどアクセスが凄いんだよ。まだ三日だっていうのにさ。ある意味有名人だぜ」 奴は他人事だからか面白おかしく言い募る。 「誰だよ! こんなふざけたことすんのはっ!」 「強固なセキュリティーがなければ、どの端末からかってのは調べようと思えば出来なくもないけど‥‥」 「じゃあ、調べろよ」 俺が怒りに任せて口にすれば、 「見返りは?」と即答で条件を突きつけてきた。 俺は眉間に皺を寄せて睨みつければ、 「タダでとは言わないよね。結構大変なんだぜ」 奴の勿体つけた言い回しに、 「金ならねぇぞ」 俺は不貞腐れた顔で撥ね付けると、 「じゃあ、体で」 「はぁ?! ふざけんじゃねぇ!」と堪らず怒声を張り上げた。 奴は叱られた子供のように首を竦め、 「うわぁー、すごい嫌がりよう! 傷つくなぁー」 そう言って茶化した。 「勝手に傷ついてろっ!」 俺はふざけてばかりで本題に入ろうとしない奴に苛立き、つい怒鳴ってしまった。 そして次第に面倒くさくなり話を切り上げようと思った。 「ああ、もういい! 良くみりゃ大した写真でもねぇし‥」 「ちょっ、待って! 話終らせないでよ!」 奴は慌てて引止めにかかる。 「ちゃんと話聞いてよ」 「じゃあー、ちゃんと話せよ」 「わ、わかった」 そう返事するとやっと本題に入った。 「この前、どうしても断れず見合いをしたんだ」 「み、見合い?」 奴の突拍子もない話に俺は目を白黒させた。 「ああ、その場で断ったにも関わらず、相手の方がすっかり僕を気に入ってしまってね‥」 「‥‥」 「仕方なく付き合ってる相手が既にいると言ったんだけど、今度はその相手に会わせろと言い出して‥」 「会せればいいじゃねぇか、朝比奈に‥」と奴の話を遮断するように何の感慨もなく俺は口にする。 「そこが問題なんだよ」 「どこが?」 と、訝ると目の前に仰々しい表装の冊子が差し出された。 「なに?」 意味が分らず問えば、 「相手の写真」 見ろと言わんばかりの奴の捨て台詞に俺は厚手の見開きでご丁寧にカバーしてある和紙を捲った。 「‥‥っ! すげっ」 見合い写真の女性は和服に身を包んだ目の覚めるような美人だった。 「だろっ?」と奴が意味深に同意を求めてきた。 「お前、こっちにしろよ」 と見たままに率すぐに口にすると、 「ちょー、身もふたも無いような事いうなよ。凹むだろ」 「朝比奈よりよっぽどこっちのがいいと思うぜ」 と俺が断然お薦めと調子に乗れば、 「ちょ、人の話聞いてる?」 そう言って脱力気味に奴が遮る。 「聞いてるって! 大体あいつのどこがいいんだ?」 「うわぁー そこまで言う!」 俺の毒舌に閉口したのかそう吐き捨てると大袈裟に頭を掻いて、困惑してみせた。 そして観念したように、 「んー、しいて言えば‥性格の不一致‥かな」 と意味不明な答えを返してきた。 「はぁ〜 一致じゃなくてか?」 「そっ、独自のパーソナリティーを擁立し、お互いの趣味趣向が合わないからこそ逆に干渉もされずに、時に意見を求めれば客観的な答えを提示してくれる理想的な関係なんだ」 「なんだそれ、人間味のかけらも感じない回答だな」 呆れるばかりの俺は前々から奴のことはオタクで変わり者だと思っていたが、意味不明な思想を理路整然と語られ、もはや理解の範疇を超えた。 だからこれ以上突っ込んでも時間の無駄だとその話題を切り上げる事にした。 「でっ、交換条件はなんなんだ」 下手に議論を交わすと面倒だと結論へと話を反らした。 「ああ、それが言い難いんだげと‥その‥翔に恋人のふりをしてもらいたいんだ」 その意外な話と更なる展開に度肝を抜かれ、 「はぁ〜! なに寝化けた事言ってんだ! 男だぞ!」 俺はマジ切れで怒鳴った。 「そうなんだけど‥さっきの話には続きがあって‥」 「彼女が中々諦めてくれないからつい、相手は男だってカミングアウトしちゃったんだよね」 「ねって、お前‥‥」 俺は絶句した。 「フリーズもんだよな、やっぱ」 二の句も告げず唖然としている俺を見て奴は苦笑しながらも茶化す。 「で、今度はその相手の男に会わせろってか」 俺が半ばヤケクソで続きを促せば、 「おお、ご明察通り!」と橘の奴、やけにテンションが高い。 「彼女、信じてくれないんだよ。実際嘘だけど‥‥。自分のどこが気に入らないのかの一点張りでさ。困ってるんだよ」 弱り顔の奴に俺は、 「そうだよ! どこが気にいらなんだ。こんな美人」と写真の女性の肩を持つ。 「どこがって! 高飛車で、上から目線。パートナー以前の問題だよ」 それまでどこか飄々と話をしていた奴が目の色を変えて豪語した。 どんだけ嫌っているんだと俺は内心驚くものの、それなら話は簡単ではないかとも思えた。 「じゃあ、そのままを言って断ればいいじゃないか!」 「とんでもない! 正攻法で叶う相手じゃないさ、この手合いは」 「なんか経験あるみたいな口ぶりだな」 「ああ‥‥姉や母と同じタイプなんだ。口では絶対叶わない。世の中自分中心に動いているといっても過言じゃない輩だ」 よっぽど身に堪えてる相手とみえる。語尾に絶望感が滲み出ている。 「それで‥‥比べる事の出来ない異性が相手という訳か」 「そういうこと」と奴はドヤ顔で結論を締めくくった。 詳細を聞いた俺は一点だけ納得のいかない事があり単刀直入に問い質した。 「で、さっきなんで朝比奈はブチ切れてたんだ」 「ああ、あれね。見合いした事バレちゃってさ‥」 「なるほど‥‥だけどちゃんと説明したんだろ?」 俺にすれば人の恋路などどうでもいい話なのだが、とばっちりはごめんだと朝比奈との真相を確認する心算で尋ねた。 「けんもほろろさ、聞く耳もたないって感じだよ」と奴は困惑気味に答えた。 「修復する気はあるんだろうな!?」 「ああ、勿論。だけど説得する前にあっちの高飛車どうにかしないと‥」 奴は今現在おかれている窮状を切々と言い募った。 俺は暫し瞑目した。
(奴の窮状は理解できるが、男の恋人役なんて冗談ではない。 それに自分の写真の流出と引き換えにするにはリスクが高過ぎじゃねぇーか? 割が合わない上に奴の窮状を救ってやるほどの恩義がある訳でもない。 これが菅野だったら二つ返事で引き受けるんだが‥ ま、菅野がこんな事頼んでくることもないか‥はは。 う〜ん、弱った)
だが俺という男は友達が困っているのを無視できるほど薄情ではない。 そして思案の末、目を開けると奴の真剣な眼差しとかち合った。 俺は意を決したように、 「分った、交換条件飲んでやるよ」と契約成立の返事をした。 奴はいきなり席を立ち上がると歓喜に声を震わせた。 「た、助かるよ。ほんと!」 「但し朝比奈の件は約束守れよ。それと成功するとは思えねぇから、万一失敗しても協力した限りは契約成立だからな」 「勿論だ」 「でっ? いつの約束なんだ」 「来週の日曜日の昼なんだけど‥‥なんか用事ある? あったら別の日にするけど」 「いや‥昼からならOKだ」 「じゃ、待ち合わせの時間と場所はメールするから」 「了解」 と俺は二つ返事で引き受け、なんだかんだと言って結局協力する羽目になった。
学食で昼飯を食べていると携帯のメールの着信音がした。 シャツのポケットから携帯を取り出して見ると橘からのメールだった。 俺は携帯で内容を確認すると大きく溜息をついた。 「翔、なに? でっけぇー溜息」と隣にいた武藤が学食の味噌汁片手に声をかけてきた。 俺は真相を告げる訳にもいかず、 「課題の提出がまだなんだ」と別件で誤魔化した。 「うわぁー 折角忘れてたのにぃぃ」 武藤は未提出だったのを思い出したのか薮蛇だったと頭を抱える。 俺は笑いながら、 「じゃ、お互い頑張ろうぜ!」と奴の肩を軽く叩き、席を立った。 「えっ! もう行くのか?」 「ああ、今日はもう講義もないから図書館でつめるわ」 と手を振るとカフェテリアを後にした。
約束の日曜日。 俺はいつものジーパンとラフな格好で約束の場所に辿り着くと、待っていた橘のスーツ姿に驚いた。 「なに、その格好!」 俺は直ぐに揶揄すると、 「それはこっちの台詞! どうせそんな事だろうと思ったよ。さぁー行くよ」 そう促し、奴は俺の腕を引っ張った。 「えっ? 行くって‥どこへ」 唖然とした顔で俺が尋ねると、 「勿論、君のスーツを買いにだよ」」 そういうと路肩に停まっていた黒のベンツのドアが開き、あれよという間に俺を押し込むと奴もそのまま乗り込んだ。 そして待機していたらしい運転手が、 「高志様、どちらへ」と奴に声をかけてきた。 「銀座の高山さんまで頼むよ」 「かしこまりました」 どうやらお抱え運転手らしい。 「おい! スーツなんていらねぇよ! 第一そんな金ねぇしっ!」 「心配いらないよ。顔パスの店だから‥それに父に前々から何着か作れって言われていたから‥」 「い、言われてたって‥」 俺は話が素通りした感じで呆けていた。 「お前ん家って‥‥やっぱ財閥系とかだったりすんのか?」 と、この桁違いの経済観念の違いに俺は確認せずにはいられなかった。 そういう財閥と名がつく人間を俺は知っている。 鼻持ちならない自己中で、膨大な人脈を持ちながらも人間関係は希薄でテリトリーは意外に狭い。 だから奴もそういう人種なのかと怪訝な顔をした。 「うん‥まぁーね。でも力もってんのは父親であって、僕じゃない」 奴の冷やかな口調は、親の七光り的な見方を嫌悪しているように見えた。 「ふーん、だけどその父親の金使ってが銀座でスーツかよ!」 と俺はその矛盾をついて嫌味を言えば、 「ふふ、だね。でもさ‥騙まし討ちみたいに財閥のお嬢様と無理矢理お見合いさせられたんだよ。少しくらい手間賃貰ってもさ‥いいんじゃない」 奴は口角を上げると悪戯っぽく笑い、俺にウインクしてきた。 「そういうこと‥‥か」 俺は妙に納得して、反発する気もなくなった。 財閥という閉鎖的な檻に閉じ込められて、生きてきた人達を知っている。 金や銀の衣装を身に纏っても、狭い範囲でしか人間関係を構築出来ないという弊害がある。 朝比奈の家は一般中流階級だ。もしかしたらこいつの親は彼女のことを知って、まだ大学生の身でありながら早々に財閥系の相手を宛がおうとしたのかも知れない。 奴は敢えて、彼女である朝比奈を巻き込みたくなくて‥‥。 想像の域でしかないが、もしそうなら力になってやるしかないなと思えた。 ふと、過去の苦い思い出が頭を過った。 あれから四年‥‥。 奴と最初に出会ったのは高校二年の春休み前の三学期末。 勘違いから家出した兄に代わって、俺はピンチヒッターで『バカンス』というゲイバーの店に出る事になった。 その客は真理子ママのパトロンの会長の紹介でやってきた。 店のナンバーワンに会いたいというフレコミで現れた男の名は藤堂。 長身で、店のおネエ様達が色めき立つくらいのいい男だった。 俺は売れっ子の兄の『薫』に代わって相手をした。 まだ未熟で子供だった俺は奴にいいようにあしらわれた。 それまで恋愛ごっこ並の経験しかなかった俺に、大人の付き合い方を教えたのも奴。 だが奴の本命は幼馴染で兄と売上げを競っていたもう一人のナンバーワンの茜さんだったのだ。 しかし本命の茜さんは客と香港に旅行中で生憎兄貴同様休みだった。 俺の相手をしたのは、奴のほんの気紛れに過ぎなかった。 そうとは知らずこの時の俺は既にマジモードになっちまってた。 今まで兄貴の恋愛体質の反動から誰に対しても気薄だった俺がマジ好きになった相手。 でも奴の好きな相手は茜さん‥どんなに想っても所詮片恋だ。 そして‥‥。 茜さんからお互い財閥系の家柄同士の為、狭い日本を離れ奴とアメリカで一緒に暮らし始めると聞かされた。 おまけに帰り際偶然会った藤堂からもそれが事実だと告げられ‥‥。 俺は失恋した。 あれ以来一度も逢っていない。 遠い異国の空の下、今頃は二人仲良く幸せに暮らしているのだろう。 前にコンパで女子大生達がセレブで今だに独身と騒いでいたのを耳にした事があった。 そりゃー、同性の茜さんとは結婚できないのだから、これから先もずーと独身なのだろうと他人事のように聞き流した。 だが失恋の痛手は思ったより重症で、自分でいうのもなんだが言い寄ってくる女性に事欠いた事がない。だがどれも長続きしない。 熱くなれないのだ。 藤堂との短い間の出来事があまりに強烈過ぎて、それを凌ぐ程の鮮烈な出会いが今だにない。
そんな過ぎ去った頃のことを回顧している俺に、 「いいなぁ〜 すっごく似合うよ」 そう言うと橘は俺のスーツ姿にご満悦な顔をした。 「よくお似合いでございますよ」 奴に同調するような口調で口を挟んできた店長は白髪交じりの中肉中背でどこにでもいそうな人の良さそうな人相をしていた。 俺は褒められた事にこそばゆい思いをした。 そしてこの店に連れて来られた時、銀座の高層ビルがひしめく中、二階建ての小さな間口の店舗に驚いた。 だが店内に入ると商品が一つも陳列していないのにもっと驚いた。 奴の話ではかなりの老舗で昔からの顧客しか取り扱っていないオーダーメイド専用で大きな店構えは不要なんだそうだ。 着いてそうそう、袖を通すよう言われたスーツは着心地がいいなんてもんじゃない。 やけにぴったり身体に馴染むのを不思議に思い、 「これって‥オーダーメードって、訳ないですよね?」 と、俺は恐る恐る尋ねた。 「はい、オーダーメードでございます」と店主はあっさり肯定した。 「ございます‥って、一度も会ってないのにそんなの無理でしょ」 と俺は一度も面識のない店長に疑問を投げつけた。 「はい、おっしゃる通り採寸しておりませんが‥予め高志様にお伺いしておりましたので‥サイズに間違いがないようで、ようございました」 と真相を打ち明けながら店主は腕を曲げた状態の袖口や肩幅を念入りにチェックした。 俺はいつサイズを調べたんだと心の中で悪態をついた。 そんな俺を余所に店主は橘にこの後の事を尋ねた。 「小物は息子がご用意してありますので、今すぐに着替えられますか?」 「ああ、助かるよ」 「小物?」 二人の遣り取りを耳にした俺が直ぐに話に割って入った。 「はい、息子がトータルファッションの店を渋谷に構えておりまして‥ネクタイや靴など一式このスーツに合わせてご用意させて頂きました」 と店主は俺に説明した。 「た、橘っ!」 かなりの散財に俺は苦情を言おうとして振り返ると、 「そういうことだから、時間もないことだし‥ちゃっちゃっと着替えてくれる」 と、俺の苦情は寸断された。 そして時計を目にしながら「翔、約束の時間に間に合わない」と有無を言わさず急かしてきた。 「くそっ!」と、有無を言わさぬ奴の身勝手さに思わず舌打した。 しかし時間がないといわれれば観念するしかない。 俺は渋々用意されたスーツ一式を手に試着室へと入った。 ライトグレーのスーツに薄いパープルのカッターシャツにベイズリー柄のダークブラウンのネクタイ。ブラウン系の革靴もピッタリのサイズには流石に恐れ入った。 すっかり整えた装いで控え室を出ると、 「‥‥」 無言のまま立ち竦む橘がいた。 「変か?」 なんのリアクションもない奴に俺は多少不安になった。 「いや‥似合い過ぎて‥なんかファッション誌から抜け出してきたみたい‥だ」 そう褒めちぎる奴の言葉に満更でもない俺は面映かった。 そしてこんな高級な店には二度と来る事はないと思っていたら、帰りがけに何故か店主から名刺を渡された。 単なる社交辞令くらいに思っていると、 「店主から今度は息子の店にお前連れて来てくれって頼まれた」と奴から意外な話を聞かされた。 「なんで?」 「目の保養に‥いっ!」 瞬時に蹴飛ばした俺の膝蹴りに奴は思わず顔を歪めた。 「翔ぉ〜、いきなりはないだろ」 奴は泣き言を口にすると、 「ほら、さっさと行くぞ」 俺は奴の抗議など全く無視して待機している車に乗り込んだ。
次に連れてこられたのは高級中華料理店の個室。 給仕に案内されたその部屋には既に先客がいた。 それも二人。 見合い相手の彼女はすぐに分った。 この前の写真とは打って変わった洋装で、聞いていた勝気な性格を匂わすような真っ赤で奇抜なデザインのワンピース姿だ。 そして隣には何故か見知らぬ若い男。年齢は同じくらいだろうか。 「すっかり待たせてしまったようですね。すみません」 そう断りを口にして頭を下げる橘に併せて俺も軽く会釈する。 「いえ、こちらも先ほど来たばかりですからご懸念には及びません事よ」 うわぁー、深窓の令嬢口調だよと思わず息を飲む。 「ご紹介頂けます?」 「あ、失礼。この前お話した僕の恋人の」 「翔です。初めまして」 俺は橘の紹介を待たずに自ら名乗った。 顔を上げると彼女の射るような好戦的な視線にドキリとする。 そして口調もそのままに、 「私、橘高志さんの婚約者で、南條薫子と申します」 と堂々と名乗った。 おまけに婚約者と言い切るところが奴が言うとおり高飛車で高圧的だ。 ジワジワと込上げてくる鬱積を抑え、『隣の男は誰だ』と目配せする。 すると男は徐に椅子を引いて立ち上がると、 「こちら友人の伊ノ元新之助さん、高志さんも初めてですわよね」 と彼女が紹介した。 「ああ、はい。初めまして、橘高志です。伊ノ元さん、失礼ですが差障りなければこちらに参列されている訳をお伺いしてもよろしいですか?」 俺も気になった事を早速、橘が問い質す。 「初めまして、私は薫子さんのご紹介の通り只の友人です。橘様の申し出に嘘、偽りがないか検分の為に同席させて頂きました。本日は薫子さんのお役に立てればと思っております」 「検分?」 俺もだが、橘もその言葉の意味を解せず訝る。 「彼、真性のゲイですの。高志さんから先日、衝撃的な告白を受けまして私、心底悩みました。それで友人である彼に相談いたしましたところ、是非力になって下さるとの申し出。それでお力添え頂くことにいたしましたの」 「ああ、なるほど‥僕達の仲が本当かどうかそれを検分ということですか?」 「はい」 「見ただけでわかるのかよ」 とあまりの馬鹿馬鹿しさに俺が口を挟むと、ご令嬢は露骨に嫌な顔をした。 俺みたいな口の悪い輩には慣れていらっしゃらないらしい。 「勿論です、見ただけではと仰られるのはごもっともです」 と俺の反論に早速、伊ノ元と名乗る男が反応する。 「僕達の様に社会に認められていない性癖の者は狭いエリアの中でパートナーを見つけなければなりません。それは至難の業です。大袈裟のように思われるでしょうが、俗にいうハッテン場は別ですが。ですから同じ趣味嗜好を嗅ぎ取るとでも言いましょうか‥感覚で分るようになるんですよ。同属かどうか‥‥」 狡猾で絡みつくような奴の視線に思わず息を飲む。 俺はハッキリ言ってその手合いではない。けれど本意ではなかったが経験はある。 下手に突付かれても言い逃れ出来る自信はある。 しかし、橘はどうだろうか‥‥。全くのノンケだとこういう感覚的なもので判断されるとなると見透かされてしまうのではないか‥。 見れば奴も顔色を変えている。 ここはノンケの奴を俺が煽ったとでもするかと覚悟を決めていたら、 「で、その感覚とやらで僕等はどう判断つきましたか」 橘が先に口火を切った。 「‥‥」 だが予想を反して奴は答えに窮するように押し黙る。 「新之助? なんで黙ってるのです。ハッキリ言いなさい」 橘の言った通りの上から目線の命令口調でお嬢様は問い詰める。 「か、限りなくグレーとだけ‥‥申し上げます」 と男は追い詰められ苦し紛れに口にした。 「そ、そんな! まさか!」と意外な答えに茫然とするお嬢様に、 「お嬢様側の伊ノ元さんのお答えですから、是か否かと言われて余程の確証が無い限りは是とは言えないでしょう。限りなくと口を濁されましたが、否ではない限り僕等を疑う根拠もないと言う訳ですよね」 得意満面に橘が理路整然と述べる。 「私、信じません事よ。そんな感覚的なもの! 逆に言えば信じる根拠もないではないですか!」 「おいおい、その感覚的なもの連れて来たのはあんただろう」 と俺は思わず突っ込んだ。 「‥‥」 これには流石にお嬢様も押し黙る。 「じゃあー、どうすれば信じてもらえるんですか」 業を煮やしたように無意味な押し問答に橘がお伺いを立てた。 「お二人の仲が本当だとおっしゃるのなら、目の前でキスでもしていただこうかしら」 と、お嬢様は更なる無理難題を吹っ掛けてきた。 『どう?!』と言わんばかりのドヤ顔の女に流石の俺も堪忍袋の緒が切れた。 「ふざけ‥っ!」 「んんっ!」 俺の罵詈雑言を浴びせようとした口が突然橘によって塞がれた。 あろう事か奴は相手の要求のままに実践したのだ。 それも舌を差し入れてのディープな口づけを! 俺は怒りと羞恥で見る見る顔を真っ赤にした。 それを見ていたお嬢様も同じく顔を真っ赤にして、 「ん、んま! 私‥不愉快です。し、失礼いたしますわ」 そう言い放つと踵を返し、逃げるように部屋を出て行った。 その愁嘆場にオタオタしていた伊ノ元も慌てて後を追う。 俺はというとやけにキスの上手い橘に油断して、いい様に口腔を弄られ角度を変えた緩急のついた口づけに息を上げていた。 奴は更に図に乗って、慣れた手つきで俺のネクタイをスルリと引き抜くとシャツのボタンを外し、首筋へと舌を這わせてくる。 流石に俺も我に返り、速攻阻止した。 「ぐはっ」 蛙を潰した様な声とともに俺の鳩尾への蹴りで橘は体を折り曲げて眉間に皺を寄せた。 そんな奴に頭から罵声を浴びせた。 「いつまでやってんだ。馬鹿野郎! 調子にのんな!」 「け、ケチだなぁ〜」 橘は脇腹に手を充てたまま苦笑しながら憎まれ口を叩く。 「あん?」 「翔もその気だと思ったのに‥‥」 「んなわけあるか! 誰がここまでしろって言ったよ。キスだけって話だったろうが!」 奴は俺の油断を攻め立ててきたので語尾を荒げて詰った。 「だ、だって‥男が洋服を贈るのはやっぱ脱がせたいからだって言うじゃないか」 「はぁ? なにベタなこと言ってやがんだ。なんなら返す」 売り言葉に買い言葉ではないが、俺は怒りに任せて上着を脱ごうとし着替えがないことにハッと気づく。 「あ、明日返す」 啖呵を切った手前、間の悪さを誤魔化すようにそう言い直した。 すると奴はいきなり噴出した。 「な、なんだよ!」 さっきの罰の悪さもあって俺はムキになった。 「翔ってさ、美貌と冷徹さでクールビューティーって言われてるけど。めちゃめちゃ可愛いよな」 「おまっ!」 益々怒気をあげると、 「まあまあ、服はオーダーだから返されても困るよ。それになんか上手くいったみたいだし、今日の報酬って事で‥」 そう言いながら奴は彼女が出ていたった先のドアを見つめた。 「報酬って‥端末の件はどうなるんだよ」 「あー、あれね。実はもう誰かは分ってるんだ」 「はぁ〜、なんだそれ!」 思わぬ事実を告げられて怒りがマックスに跳ね上がった。 「まあまあ、抑えて抑えて」 俺の形相に奴は慌てて宥めにかかった。 「でっ、誰なんだよぉ!」 そう問い詰めると奴はにんまり笑って、 「田所教授‥」 「っんの野郎!」 俺はその名に怒りも顕にすると、 「まあ、あっちも故意じゃないし、それに今頃大変な事になってると思うし‥」 橘は意味深にそう口にした。 「なんだよ。故意じゃないって、それに大変な事って」 「ウイルスに感染しちゃって、大事なデーターが流出しちゃったんだよね。翔の写真も先生にとっては秘蔵中の秘蔵だったろうに。それに大事な研究データーも‥誰だろうね。ウイルスなんて送りつけたの」 含み笑いの奴に、すぐにその誰かは検討がついた。 オタクの奴なら簡単な事だ。 はなから俺を巻き込む心算でやったのだろうが、相当な食わせ者だと怒りより呆れた。 それより伊ノ元相手にノンケの奴がなんであんな暴挙に出たのかその事が気になった。 「お前‥」 そこまで言いかけて俺は思い留まった。今更どうでもよかったからだ。 「ん、なに?」 だが奴は俺の打っ棄った言葉が気になったのか聞き返す。 「いや、なんでもねぇー それよりこれからどうすんだ。ここ予約なんだろ」 「ああ、二人分キャンセルして僕等は食事して帰ろう」 「キャンセルなんて出来んのか?」 人の懐だが、贅沢に慣れていない俺にはどうにも気になった。 「支払いはするよ。四人分。って言っても払うのは父だけどね」 「ああ‥」 交際費も全て親がかりなのかとある意味関心した。 その妙な誤解を解くように、 「この前ね、彼女とどうなってるって聞かれたから今日デートだといったら勝手に予約されたんだよ。人数は知らなかったと思うけど」 奴はどこか小馬鹿にしたように飄々と応えた。 変に誤解した心算もないが、奴にはそれなりにプライドがあるのだと知った。 給仕が食前酒を持ってきたので、すぐに二人分のキャンセルを告げると意外な答えが返ってきた。 元から二人分の予約しかなかったというのだ。 俺も奴も意味が解せずいたが、 「案外、俺と伊ノ元はすぐに追い返して、お前と二人で食事の予定だったんじゃねぇの。お嬢様の腹積もりではさ」 事の真相を俺なりに予想してみた。 「その逆かも知れないよ。君を伊ノ元に押し付ける心算だったのかも」 「そりゃあー、ないだろ」 俺は絶対有得ないと否定する。 「どうして、あんなに君に色目を使ってたじゃないか。気が付かなかったの?」 「ぐほっ、ぶほっ」 俺は信じられない橘の一言に思わず口にしたばかりの北京ダックに噎せた。 「相変らず鈍感だなぁー。部屋に入ってくるなり熱い視線浴び捲りだっていうのに‥」 続けてダメ押しされ慌てる。 「睨んでただけだろっ! 変な風に言うな!」 「変じゃないさ、ある意味同類だからね。伊ノ元とは‥」 「っ!、同類って‥‥なに言ってやがる。朝比奈がいるくせに」 奴の意味深な言葉に一瞬たじろぐものの、直ぐにそれが事実でない事を思い出す。 しかし奴は一笑すると何の躊躇いもなく口にする。 「実は僕、バイなんだ」 「‥‥」 開けてはいけないパンドラの箱が今開かれたような最悪な事態だ。 そして驚きのあまり愕然としている俺に、 「ねぇー、物は相談なんだけど‥本当に付き合わない?」 そうぬかした。 この呆れて物も言えない言動に俺はマジ切れした。 「ぁあ?‥朝比奈どうすんだ!」 「うーん、修復するの‥大変なんだよねぇー。それに元々翔狙いだったし‥」 「てめぇ‥金玉潰されてぇのか!」 そう言うと俺は奴の股間目がけて手を伸ばし脅しをかける。 奴は慌てて体を後ろに反らせると顔を引き攣らせた。 「‥っ! か、過激だな」 「当たり前だ! これ以上ややこしくするんじゃねぇ!」 「あーあ、玉砕か‥。覚悟はしてたけど」 奴は態と大袈裟にがっくりと肩を落とす素振りを見せると、 「翔を口説き落とせるのってどんな奴なんだろうね‥‥」 溜息混じりにそう呟いた。
そうだな‥。 俺も早く会いたいよ。 あの男以外のまだ見ぬ相手に‥。 俺は塞ぎ切れていない心の傷口が小さく疼くのを感じた。
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