「ここらへんの筈なんだが‥」 鬱蒼と茂る木々の中、日中でも日の差さない薄暗さに真夏だというのにひんやりとした山の冷気に思わず身震いする。 「ねぇ〜 神谷君‥本当にここなの?」 と、女の足だと同行するのはさぞ大変だろうと危惧していた徳永実花とくなが みかが声をかけてきた。 公道から山の中へと足を踏み入れ、道無き道‥本来人間が通らない獣道を辿って、木々の生い茂る山の奥へとやって来た。 聳え立つ樹齢何十年という大木が立ち並び、夏の真っ盛りに瑞々しく生い茂る枝葉の隙間から僅かに清々しい夏の青空を覗かせた。 「ああ‥この前警察の人に連れて来てもらったんだ‥」 と彼女の質問に答えてやりながら目的の物をひたすら探す。 足元も覚束無いほどの雑多な中、数歩先にあるセロハンが目に留まった。 「あった」と思わず声をあげた。 「え、どこ?」と俺の声に反応して振り返る彼女は思わずバランスを崩しそうになった。 「こっちだ」とそれを支えるように手を差し伸べた。 俺は彼女の手を引いて数歩先のその現場へと向かった。 湿り気のある地面に横たわる倒木に生い茂る苔からなのか、少しかび臭い臭気が辺り一面に漂う。 それに侵食されたように色とりどりに咲き誇っていた筈の花々は朽ち、相容れない透明のセロハンだけがその存在を示していた。 それは一ヶ月前に奴の遺体が見つかった現場に供えた花束だ。 「本当に、ここなの?」 彼女は不安げに問うと繋いでいた手が小刻みに震えた。 俺はその手をギュッと握り締め、小さく頷いた。 こんな人里離れた山奥で、死後まもなく発見されたのは奇跡だと地元関係者がテレビで語っていたのを思い出した。 俺は背中のリュックに差し込んできた花束を取り出し、現場に供えた。 「やはり、ここなのね‥智也が見つかった場所って‥」と彼女は震える声で念押しする。 「ああ‥」 「こんな‥寂しいところで‥酷い‥」と声を詰まらせる。
智也の訃報は警察からだった。 日曜日のその日、俺は朝からバイトで、休憩にはいって直ぐに鳴り響いた携帯に慌てて出た。 出ると携帯に表示された着信履歴の殆どが智也の名だった。 そして電話してきたのは智也ではなく、聞き覚えのない中年の男の声だった。 男は山梨県警の刑事だと名乗り、身元不明の遺体を確認して欲しいというのだ。 狐につままれたような突然の話に困惑したのは言うまでもない。 それより何故俺なんだと不審に思い、 「なにかの間違いではないですか」 と、否定すると身元が分かる所持品が見つからず、遺体から離れた所で見つかった携帯が唯一の手がかりで、その最後の発信履歴に連絡したと説明された。 現段階では遺体が携帯の持ち主と断定も出来ない状態なので、本人かどうか取敢えず確認して欲しいいう事だった。 それも山梨までと来てくれと言われ、流石に俺も答えあぐねていると、 『もしかしたら、他殺かも知れないんですよ』 といきなり事件の内容を仄めかされ、「それ、どういう意味ですか?」と、不快感を顕にした。 『あ、失礼‥こちらとしてはこれしか手がかりがなくて‥ご協力願えませんかねぇ』 急に低姿勢になった相手に訝りながら、 「バイト中なので店長に確認して折り返し連絡します」と、言って一旦電話を切った。 俺は店長に事の次第を説明し、どうにか許可を得るとその足で山梨へと向かった。 山梨の警察署に着くと電話で話した例の刑事が出迎えてくれた。 その男は白髪交じりの短髪で目の細い顎が張った四角い顔をしていた。 「山根と言います。神谷さんですね」 「はい」 「すみませんね。バイト中だったんでしょ? 大丈夫でしたか?」 「いえ、事情が事情ですから‥それより本当に智也なんですか?」 半信半疑でそう訊ねると、 「それが‥身元の分かるものが本当になくて、携帯は確かに泉田さんの物なんですがね」 それはそうだと俺の着信履歴からして明白なことだった。 「ところで‥泉田さんと最後に会ったのはいつですか?」 「え‥」 「いえ‥参考までに」と、顔色一つ変えず刑事は無遠慮に聞いてきた。 「参考って‥」 俺はまだ智也と決まってもいないのに心外だと怪訝な顔をした。 「ああ‥すみません。商売柄つい‥とにかく確認が先でした」と、刑事は罰が悪そうに頭に手をやる。 刑事の後をついて廊下を歩いていると、 「山さん、両親に連絡つきました。夕方には付くそうです。それと写真手に入りそうです」 と後ろから、がたいの良い若い男が声をかけてきた。 一瞬、智也の事だと思った。 「智也の両親の事ですか」と前を歩く刑事に単刀直入に尋ねた。 「ええまぁ‥まだ身元確認できてないんですけどね‥ご両親の方にも確認したら携帯以外本人と連絡がつかんのだそうですわ」 「そうなんですか‥」 「まだはっきり断定した訳じゃあないですが、取りあえず来られるって事になったんですわ」 「それなら‥僕じゃなくて身内の方に確認してもらった方がよくないですか?」 「‥‥」 俺の問い掛けに刑事はピタリと足を止めた。 そして振り返りニヤリと口角を上げると、 「大丈夫。死後まもなくで腐乱もしてないし、綺麗なものだから‥お身内じゃなくても一目で分かりますよ」 まるで俺の心の内を見透かすように告げられた。 だって智也だろうが別人だろうが、いくら綺麗とはいえ死体だ。 恥ずかしい話だが俺は葬式の経験もなく、まだ死人を目にした事がない。 そう思えばビビリもするし、それも親友の智也だと言われても正直、全く実感が沸かない。 だがこの時の俺の拒否発言は違う意味で受け取られたようだ。 安置所に案内された俺は、白い布にすっぽり覆われた物の前まで連れていかれた。 刑事は両手を合わせ黙祷してから顔の部分の布を取った。 「神谷さん、確認お願いします」 そう言われて俺は恐る恐る近づいた。 「‥‥」 智也? 男のくせに睫毛が長く、丸みを帯びた輪郭は少し年齢を若く見せた。 なんだか瞼が落ち込んだように見えるがその顔は間違いなく智也だった。 しかしその顔色は異常に白く、膨らんだように浮き上がって見えた。 これが智也だって‥。 俺は呆然としたまま立ち竦んだ。 確かに見知った顔に違いないのに、もしかしたら智也に良く似た別人ではないかという妄想にかられた。 「神谷さん!」 強い口調の呼びかけで、ハッと我に返った。 「そんなに変わってないと思うんですがね。なんだったら他も見てみますか」 刑事はそう言い放つと同時に、まるで手品の種明かしでもするように体の方の布も一気に取り払われた。 「‥‥」 智也の全裸に思わず息を飲んだ。 それは青白く等身大の陶磁器の人形のように綺麗だった。 下肢の茂みから覗く男根さえも彫刻のように白く美しい形を成していた。 「どうです、傷一つないでしょ。首の所にみられる皮下出血くらいずらかね。他にも外傷はあるんですけど‥まぁー、それは見えないところなんで」 と、刑事はなにか誤魔化すように説明した。 「‥‥」 俺はその見えない外傷というのが気になったが、それより捜査上の秘密をこうもペラペラと喋っていいのかと不審に思った。 しかし刑事はどこか俺の一挙手一投足を洞察するように話を続けた。 「死因は頚部圧迫による扼殺と見ているんですがね」 「それじゃー、殺されたって事ですか?」と、俺の先走った言動に刑事は苦笑し、 「まぁ、詳しい事は解剖してみないことには‥」と口を濁した。 「で、どうなんです。泉田さんですか?」 どこか話題を逸らすように本来の目的である身元確認を求められた。 「‥‥泉田‥だと思います」と、俺は搾り出すように口にした。 「間違いないですか?」 そう刑事に念押しされ、俺はそれに応えるように頷いた。 だが目の前の事実がすぐには飲み込めず、どこか傍観者のように実感はなかった。 「本当に‥死んでるんですか?」 「え‥どういう意味ですか?」 刑事は俺の突拍子もない問い掛けに不審顔で聞き返してきた。 「いえ、昨日電話で話したばかりなのに‥なんかこれ、よく出来た人形みたいで‥本当に人間なんですよね」 「人形ねぇ‥これだけ綺麗だと見えなくもないか‥」 刑事はそう独り言のように呟いた。 「偶然、山菜取りに来てた人に発見されたんですけどね。野犬に食い荒らされる前で本当によかった」 「目だった外傷もなくて‥本当に綺麗な仏さんだ。まだ若いのに‥」 その何気ない刑事の一言が急に耳鳴りのようにリフレインすると、まるで鼓膜が圧迫されたように頭がボーっとした。 するといきなり目の前の光景がグシャリと歪んだ。 自分の身体が左右に揺れているのか、それとも智也なのか‥。 胸の辺りが鉄の板で挟まれたように妙に息苦しくて‥。 グルグル回る風景の中、目の前の智也の手が動いたように見え、思わず手を伸ばした。 ひんやりしたそれは男にしては小さく、肌の感触が生々しくて今にも目を覚ましそうに思えて、 「智也‥‥おい、トモヤ」 と、奴の肩に触れようとして刑事に止められた。 「神谷さん! もう、死後膠着が始まっとるから‥」 そう言われて初めて目の前の理不尽な光景が現実味を帯びた。 俺は戦慄く口元を手で押さえ胸に痞えたものを吐き出すように、 「嘘‥なんでこんな事に‥」と、憤りを口にした。 「さぁ〜、それは貴方が一番ご存知なんじゃないんですか?」 「え‥」 動揺していた俺には刑事のその言葉の意味がすぐには理解できなかった。 「別室で色々詳しい話、聞かせてもらいましょうか?」 と、促され初めて容疑者として疑われているのだと気がついた。 だから遺体の確認を嫌がった時怪訝な顔をしたり、俺の反応を見るように事件の事をやたら詳しく話したんだ。 任意の事情聴取として連れていかれた取調室で俺は更なる事実を耳にした。 だがそれは今、目の前にいる彼女にも言えない重大な事柄だった。 俺は智也の携帯の発信履歴から最後に接触した人物ということで真っ先に疑われた。 だが犯人の物と思われる靴跡や血液型など全てに一致しなかったようだ。 最終的に犯行時刻と思われる時間帯、都内でアルバイトに勤しんでいたというアリバイが成立し嫌疑ははれた。 そして事情聴取の時、犯行の一部を聞かされた。 死因は恐らく手で絞め殺された扼殺とほぼ断定しているようで、先ほど山根刑事が誤魔化した見えない傷とははレイプされた痕跡のことだった。 肛門に裂傷の跡と周りに本人の者以外の体液と本人のものと思われる血糊の跡。 この事はあくまで犯人しか知りえない事実の為、硬く口止めさせられた。 そう‥智也の恋人の彼女にも決して伝えられない事実。 智也がそんな目にあったなんて‥。 山根刑事から智也の性癖をしつこく聞かれたが、全く心当たりはなかった。 俺はアリバイが立証されて、その日のうちに釈放された。 取調室から出た所で智也の両親の到着を耳にした。 お悔やみを言おうと霊安室の前で待たせてもらったが、中から母親の絶叫が聞こえ居た堪れずその場を去った。 遺体は他殺の疑いがあるという事で死亡解剖に回され、すぐの葬儀にはならなかった。
解剖した結果、死因はやはり窒息死だった。 警察は他殺の方向で本格的に捜査に乗り出し連日テレビでも報道され、大学にも押し寄せた。 だがレイプされたという事実は伏せられままだった。 彼女である徳永も色々事情を聞かれたようだ。 だが犯人は現場に残された靴跡などから同性の単独犯であると断定されたようで、徳永はあくまで参考人として事情聴取されたようだ。 大学構内を警察やメディア関係者がうろつき騒然とした日々が続いた。 そんな中、どうにか葬儀も無事に終わり、どうしても遺体発見現場に行きたいという彼女の強い希望で、俺が道案内する事になった。 朝一番の列車に乗り、電車とバスを乗り継いでどうにかここまで辿り着いた。
彼女と二人、交互に線香を手向けた。 深緑の中を細い糸のように線香の煙が立ち昇る。 長い時間をかけ徳永は祈りを捧げた。 両手を併せ、項垂れたままの彼女の肩が震えている。 そのか細い肩をそっと後ろから抱きしめてやりたい衝動に駆られる。 だが同情からではない邪な気持ちがある俺は、必死に思い留まった。 俺は親友の彼女に長い間横恋慕していた。 不意に荼毘に付された智也の最後の姿が脳裏に蘇る。 大学に入ってから同じ学部の智也と親しくなった。 見知った顔もいない俺と違い、智也には付属からので友人がいた。 友人の広瀬と早坂は智也を通じて親しくなった。 三人とも実家は都内で、中流階級の富裕層だ。 特に智也の実家は資産家で、実家からでも通える距離なのに大学近くのマンションで一人暮らしをしていた。 俺は福岡から上京して、都心から離れたアパートを借りている。 実家からの仕送りも少なく、バイト三昧の苦学生だ。 生活水準の違いや共通の友人もいない智也と親しくなれたのは偶然だった。 先に声をかけてきたのは智也の方からだ。 今から丁度三年前、目当ての書籍が見つからず、古本屋巡りをしている時のことだ。 図書室では禁帯区分の蔵書で、講義のない日はバイト三昧の俺は思い切って高額なその本を手に入れようと思った。 しかし品揃えが豊富だという触れ込みから訊ねたこの古本屋にもなかった。 親切な店員が入荷したら知らせてくれるというので注文書に連絡先を書いていたら、 「その本なら持ってますよ」 と、いきなり後ろから声をかけられた。 振り向くと俺より少し小柄で、色白の丸顔の男はその声を聞かなければ男か女か分からないような容姿をしていた。 「‥‥」 俺も店員も一瞬何のことか分らず呆然としていると、 「社会政策大系でしょ‥長谷川氏の」と、目当ての書籍名を言い当てられた。 「‥‥一巻なんだけど」 「全巻あるから」 「え‥十巻全部?」 俺は驚きに目を剥いた。 「ええ、神谷‥さんですよね」 と見知らぬ相手にいきなり名前を呼ばれ、今度は目を白黒させた。 彼は俺の阿呆面が面白かったのか大きな目を細めて、微苦笑した。 結局店員からいつ入荷するか分らないので、彼の申し出を受けた方が良いと説得され妙な具合に決着がついた。 書店を一緒に出て、近くのカフェに入ると改めて挨拶を交わした。 「僕、泉田智也といいます」 「あ、神谷 徹です」 そう名乗ると彼は知ってますと言わんばかりにクスリと笑った。 その笑顔がやけに印象に残った。 そして同じ学部だと教えられ、 「そうなんですか‥キャンバスで会ってるんだろうけど‥すみません」と、認識不足を謝った。 「別に気にしないで下さい。僕も君の事を知ったのはあの事件からだから‥」 「え‥事件って?」 心当たりが無い訳ではないが、まさかそれを知っているとは夢にも思わなかった。 「ほら、君が入学早々、講師を殴った例の事件です」 「え、えーっ」 なんで知っているのかという驚きから突拍子もない声を上げた。 「皆知ってますよ。ある意味有名人です」 「そ、そんな‥」 (知らぬは本人ばかりなり‥って事か) 俺は我知らず大きく溜息を付いた。
講師を殴った経緯は、偶然通りかかった研究室の中から女性の悲鳴を耳にし、飛び込むと中で揉めている男女の姿を目撃した。 俺の姿に女性の方が救いを求めているような気がして、男の暴挙を止めに入った。 すると男が逆上して殴りかかってきたので、反射的に手が出てしまったと言う訳だ。 事は生徒が師に手を出したということで大問題になる展開を孕んでいたのだが、その時の女生徒が実に勇気ある行動に出た。 大学側にセクハラとして訴え出たのだ。そして俺は無罪放免となった。 ただし大学側もこの不祥事を公にしたくなくて、処罰なしの交換条件として口止めされた。 だから誰も知らないはずなのにと困惑していると、 「情報社会だからね。ネットでその日の内にあっという間さ」 と彼は皮肉交じりに噂の出所を教えてくれた。 (人の口に戸は立てられないという事か)と妙に納得した。 「噂は尾びれがつくものだけど出所が被害者本人だからね。穿った見方はあるだろうけど‥君は正義の味方ってフレコミだったよ」 と事細かくその内容を教えられ、俺は見る見る顔を赤らめた。 俺のその間抜けな形相を前に、彼は目を細めて微笑んだ。 男なのに色白だからか、パッと花が咲いたように華やいで目を惹いた。 その笑顔に釣られるように俺は顔を綻ばせた。 だが急に照れくさくなって、 「いくらなんでも正義の味方はないな‥それに噂を流したのが本人ってのも何かの間違いじゃないかな」 俺の否定的な言い方が癇にさわったのか、彼は急に顔色を変えた。 だが彼女も堅く口止めされていたし、まして被害者自身が暴露するなんて有り得ないと思ったからだ。 「間違いないよ。だって、本人から聞いたから‥」と、思ってもいなかった答えを返された。 「‥‥」 俺は意味が分からず唖然とした。 「君が助けてくれた彼女、実は一つ上の従姉弟なんだ。例の講師の処分が不服で匿名でネットに暴露したみたいだよ」 「いとこ‥なんだ」 「ん‥結構美人なんだけど気が強くて、例の講師を社会的に抹殺してやるって息巻いてたよ」 (なーる、それで被害者本人がキャンパス中に噂を流してるのか)と、やっと納得がいった。 泉田は、「見た目に騙されて手なんか出して馬鹿な奴だよ」と、 講師を罵倒した。 「もしかして助けなんて要らなかった?」 彼女の凄そうな性格を聞かされ、俺の出る幕はなかったんじゃないかと思えた。 「それは違うよ。未遂だったからあんな強気に出れたんだよ」 「それにその事実は君自身が証明してくれてるじゃないか、従姉弟には天の助けだよ」 「そうかな」 「いくら未遂だといっても目撃者がいなければ、従姉弟は誹謗中傷の的でしかない。世の中ってそんなもんだろ」 理路整然といわれた彼の言葉は確かにそうだと思えた。 「ある意味、一番の被害者はあの講師かも知れないね」 と彼の見解に、顔を見合わせると思わず噴出した。 そして一緒に声を上げて笑った。 これをきっかけに俺らは打ち解けたような気がする。 その後、例の古書の話になり彼は全巻貸すと言ってくれたが、セキュリティーもないボロアパートに置くわけにもいかず、一冊づつ借りる事にした。 翌日キャンパスで受け取ると、 「神谷は著者に興味があったりする?」 と、いきなり本の著者の事を尋ねられた。 「ああ‥この人の生き様は好きだな。でも何で?」 「この著者の本、他にもあるから‥」 「どんなの?」 「なんだったかな‥何冊かあったみたいだけど」 あまり興味のなさそうな言い方に、「泉田は読んだ事ないのか?」と、逆に尋ねた。 「本を持ってるからって、読破したとは限らないよ」 「そうか‥」 「元々、父から譲られたものだし」 「え、そうなんだ。借りていいのか?」 「平気だよ。もう僕のものだし、父にしたって中身より骨董扱いだよ」 「本棚の飾りじゃないんだ。読まなきゃ意味ないだろ」 泉田はどこか投げ遣りな言い方をした。 広瀬から聞いたのだが、彼の実家は代々大地主で貸しビルをいくつも持っているらしい。 住んでるマンションも建物自体、祖父のものだそうだ。 今思えば、そういう特権階級的なものを彼は特に嫌っていたような気がする。 それから彼とは気軽に声をかけあうようになり、いつの間にか一緒にいる事が多くなった。 泉田という呼び方も広瀬達に倣い『智也』に変わった。 そんな時だった。 高校時代から付き合っているという徳永さんを紹介されたのは‥。 少しスレンダーな体つきだが、目に付く程の大きなバストと栗毛で今風の巻き毛は、肩の辺りで揺れていた。 目鼻立ちのはっきりしているのは勿論だが、零れるような大きな瞳は、笑う度にクルクルして愛くるしかった。 『今年の新入生に可愛い子がいる』と巷の噂で耳にしていたが、実際会ってみると想像以上で、俺は彼女を前に胸をときめかせた。 だが、智也の彼女という事実は変わらない。俺はときめいたと同時に失恋した。 以来思いを打ち明ける事もなく、仲の良い二人の姿を遠目で見るしかなかった。 今となっては、その思いを打ち明ける事も憚られる。 こんな事ならあの時、玉砕覚悟で打ち明けていれば良かったと後悔した。 今更死んだ人間と張り合う事も出来ない。 時が立てば彼女も立ち直り、誰かと知り合い結ばれるのだろうか。 それが俺ならいいのにと思わなくもない。 だが今はそう思う事さえ智也に悪い気がして、一歩も踏み出せないでいる。 取り敢えず、こうして彼女の傍にいて見守っていようと思った。 (不謹慎だって怒るだろうな‥けど、そのくらいは許してくれよ‥)と心の中で智也に許しを請う。
「徳永、そろそろいいか」 下山を促すと彼女はゆっくり立ち上がった。 火の始末を見届けてから元来た山道を戻っていく。 帰りの足取りは心無しか重い。 パキパキと枯れ枝を踏み締めながら下山して行った。 その道すがら、 「神谷君‥」 前を歩いている彼女が不意に声をかけてきた。 「なに?」 「うん‥智也と最後に話したの神谷君だよね」 と、突然あの日の事を尋ねられ、 「ああ‥警察の調べではね‥」 俺は不機嫌にそうに応えた。 本当にところは智也にしか分からない。なにせ死人に口無しなのだから‥。 だが携帯の履歴で、最後に言葉を交わしたのが俺だと言われた。 それで真っ先に疑われたのだが‥。 「ねぇー、最後に智也とどんな話したのか聞いていい?」 「ああ‥今日会えないかって言われて‥今からバイトだって言ったら‥そうかって、切れた‥それだけだよ」 まるで暗記した文面のようにスラスラ淀みなく口にしたのは、警察の取調べで何度も同じ事を聞かれたからだ。 同じ事を何度何度も問い質して、矛盾が生じたりボロが出ないか確かめられた。 その質問の後、今度はその時の智也に何か変わった様子はなかったかと‥これも何度も聞かれた。 正に同じ事を今度は彼女に問われている。 「で‥その時の智也の様子変じゃなかった?」 「いや‥別に‥いつもと一緒だったけど‥」 「そう‥なら良いんだけど‥本当に変じゃなかったのよね?」 「ああ‥でもなんで?」 やけに拘る彼女に理由を尋ねた。 すると急に歩みを止め、 「あの日‥」 項垂れたまま、彼女はポツリと呟く。 「朝の講義が終って‥智也から『話がある』って呼び出されたの」 語り始める彼女の後姿が妙に緊張しているのが分った。 なにか重大な告白のような気がして、俺も神妙な気持ちになり思わず息を飲む。 だが話はそこで途切れ俺達の息遣いを飲み込むような沈黙の中、森のざわめきだけが辺りの空気に染まった。 緊迫した空気が漂い一向に話を切り出さない彼女に、 「それで?‥智也はなんだって?」と、話の続きを促した。 「うん‥別れようって‥」 「え?」 思いもよらない言葉に驚き、愕然とする。 「薄々気付いていたの‥彼‥他に好きな人がいるって‥」 「そんな! それ徳永さんの勘違いだよ‥そんな女いないって!」 と否定し、俺の知る限りの事実を口にした。 「相手‥女の人じゃないと思う」 「え‥」 更なる衝撃の告白に、下隠しにしてきた事件の真相を暴かれたような気がして息が止まりそうになった。 「神谷君だってびっくりだよね‥でも戸塚君が見たっていうの‥」 (戸塚だって‥) 聞き覚えのある名に、最近智也がよくつるんでいる色白のひょろっとした男の顔が過る。 同じ学部でもない戸塚の存在が気にはなっていた矢先の事だ。 益々意味深な言葉に、固唾を飲む。 俺の知らない智也‥まるでパンドラの箱を開けるような、踏み込んではいけない領域に怖気づく。 だがもしかしたら事件を解く鍵になるかも知れない。 進展しない捜査状況が打破できるのではと恐る恐る尋ねた。 「見たって‥何を?」 後ろ向きのまま話していた彼女がゆっくり振り返る。 生い茂る木々の薄暗い中、色白い彼女の顔が妙な感じに浮かび上がって見えた。 シャンとした背筋と揺らがない眼差しが、意を決したような強固な意志を感じさせる。 だがその真剣な眼差しは、一瞬にして悲しい色合いに変わった。 そしてその言葉が彼女の口から発せられた。 「ハッテン場で有名なお店から‥男連れで出てくる所を‥」 「っ‥! 嘘だろ‥それ人違いだよ」 俺はその衝撃的な話を即座に否定した。 いつも一緒にいた智也にそんな性癖があるなんて、そんな事‥片鱗も見えなかった。 (絶対、人違いだ!) 真っ向否定する俺を、 「うん‥私も信じられなくて、『冗談でしょ』って言ったら、戸塚君がね‥」 「『智也』って声をかけたら振り向いて、戸塚君を見るなり逃げるようにして行っちゃたんだって‥」 「それ‥戸塚からいつ聞いたの?」 と、あの事件との関連がないか、ふいに気になり問い質す。 「智也があんな事になった‥‥事件の後だよ」 「でも‥なんで今更、戸塚が徳永さんにそんな事ー」 「うん‥塞ぎこんでた私に声をかけてくれて‥なんとなく智也との別れ話の話になって‥戸塚君に智也の好きな人はこのこと知ってるのかなって言ったら‥さっきの話してくれたの」 「‥‥」 俺は何も知らなかった事に憤りを感じた。 「戸塚君は誰にも言う心算なかたって‥智也にも誰にも言わないって約束してたそうよ」 「約束って‥そんなの信じられるかよ! 現に徳永さんに言ってるじゃないか!」 すっかり蚊帳の外の俺は何故か沸々と込上げる怒りのような感情を押し止める事ができず、暴言を吐いた。 「まって神谷君! 戸塚君は約束を守るわ」 「はっ! 何の根拠があって」 俺の嘲る声を遮るように、 「彼もね‥そういう性癖なんだって‥だから智也の気持ちが良く分るって‥」 「智也の気持ちだって‥」 そう吐き捨てると俺の知らない智也がいたという事実に打ちのめされるとともに、信じていた親友というスタンスを遮断されたようで堪らなくなった。 だがそれ気持ちは徳永も同じだった。 「私という彼女がいながら‥男の人に惹かれる気持ち‥騙し続けて辛かったんじゃないかって‥」 「騙すって!」 彼女自身全否定するような言葉に俺はつい声を荒げた。 「ごめんなさい‥騙すっていうのは語弊があるわね。勿論最初は好きで付き合った訳だし‥」 彼女は肩を震わせ、胸の澱みを吐き出すように早口になった。 「その時の彼の気持ちは信じられるもの。でも人の心は繋ぎ止めておけない‥まして好きになった相手が男性で、それを認めたくない自分との葛藤と私を好きなんだと思う事でそれから逃げようとする罪悪感で苦しんだんじゃないかって!」 「徳永!」 興奮気味に捲し立てる彼女を制するように呼びかけた。 「‥‥ごめん」妙に興奮したことを謝ると彼女は大きく深呼吸した。 「そう戸塚君が私に言ったの‥」 一呼吸おいてすっかり冷静さを取り戻した彼女は先程の話に付け足した。 「それで思い出したの‥彼、時々寂しそうな顔する時があって‥」 「私が居るのにって、何度も思ったわ」 「‥‥」 「今思うと‥それが原因だったのかなって‥」 彼女は何かを堪えるように、言葉を詰まらせた。 俺は頭が混乱して何も考える事が出来ずにいた。 だから無言のまま、彼女の話を聞き続けた。 「智也‥こんな事になって‥結局相手に気持ち伝えられなかったのかなって‥」 別れを告げた智也を許すような心情をその言葉から感じ取り、 「そんなの‥分らないじゃないか‥」と慰めにもならない返事をした。
(想いを伝える事が出来たのかどうかなんて‥相手が誰かも分からないのに) そして俺はここに来て、あの霊安室で目にした青白く傷一つない美しい肢体の謎を思い出した。 もしかしたら‥智也の好きな相手というのは犯人だったのではないか。 扼殺と聞いていたが、僅かに首に皮下出血が見られただけで、顔も体も綺麗だった。 首を絞められてすぐに手を離せば顔面のうっ血も見られないと山根刑事が言っていた。 それでも何故か腑に落ちなかった。 レイプされたというのなら、細身とはいえ大の男だ。 彼方此方擦り傷などの抵抗した跡があっても奇怪しくない筈なのに‥。 智也の体は、擦り傷どころか青白く息を飲むほど綺麗だった。 早い話、抵抗した跡がないのだ。 行きずりの犯行というなら尚更、無抵抗だったというのは信じ難い。 だが胃の内容物でも薬物を使った形跡はないという。 抵抗がみられない事、扼殺にしては顔に死斑が出ていない事、犯行現場のこんな山奥まで同行している事、全てを考察してみた。 どうしてあんな事になったのかは分らないが、少なくとも智也は相手に逆らう気持ちがなかったという事だ。 もしかしたら気持ちを打ち明け、受け入れる心算でここまでついて来たのではないか‥そう思うと全ての辻褄が合う。 その確信に自ら恐れ慄き体が震えた。 もしそうなら、告白して殺されたなんて‥こんな残酷な結末はない。 「どうしたの? 神谷君?」と彼女は心配そうに声をかけてきた。 「あ、いや‥案外告白したのかも知れない‥」 「え?」 「いや‥そう思っただけだ」 「‥そうね‥」 彼女は俺の次の言葉に落胆の色を見せた。 安易な言い方が不味かったのだろうと分かっていたが、断定的な言い方は出来なかった。 彼女は無言のまま前を向き直して再び歩き出した。
それから駅につくと、智也の話には一切触れず交わす言葉も大学のゼミなどの話題で、お互いに智也の話を避けているのが分った。 何度か乗り継ぎ、自宅まで送り届けるとそこで別れた。
その後、彼女の姿を何度か大学構内で目にしたが敢えて声をかけることはしなかった。 所詮、智也という共通の知人がいただけの繋がりだったのだと諦めた。 だから縦の繋がりしかなかった友人関係さえもいつの間にか自然消滅していた。 彼女への固執も色褪せ、俺の想いもこんなものかと自嘲した。 Version:1.0 StartHTML:0000000105 EndHTML:0000035087 StartFragment:0000000127 EndFragment:0000035069 暫くしてキャンパスであまり姿を見なくなった山根刑事と出くわした。 最初は敬遠していたのだが、何度か声をかけられ知り合いくらいの間柄にはなった。 「よぉー」と朝からテンションの高い山根刑事に、俺は軽く会釈した。 今日は山梨で見かけた若い刑事も一緒の二人連れだ。 「なんか‥あれから思い出したことないか」と聞かれ、「ないですね」と簡素に答えた。 俺の適当な返事に若い刑事はムッとした顔をした。 「そちらはどうですか‥なんか収穫ありましたか?」 俺はいつもの軽い気持ちで尋ねると、 「おい、余計な事は聞くな!」と、例の若い刑事に一喝された。 「まぁまぁー、単なる社交辞令じゃないか」と山根刑事が取り成すように言うと、彼は顔を真っ赤にして、「山さん!」と声を荒げた。 二人の険悪なムードに固唾を呑んで様子を見ていると、 「杉山‥お前、聞き込みに行ってこい」 と、突然山根刑事が指示を出した。 彼は不本意だと言わんばかりに眉間に皺を寄せ、 「行って来ます」と、鬱積をぶつけるように声を張り上げると反対側の構内へと走って行った。 「若いくせに‥この唐変木が!」 山根刑事は目を細めて、部下の後ろ姿に愚痴をこぼす。 「融通のきかん男で、悪かったな」と謝られ、俺は思わず苦笑した。 「そうそう、泉田さんが歌舞伎町二丁目の店に出入りしてたのは知ってたかね」 「いえ、知りませんでした」 と何の感慨もなく答えると山根刑事は不審そうな顔をした。 「え‥?」 「いや、驚かんな‥と思って」 「何をです?」 益々意味不明な事を言われ、俺は怪訝な顔をした。 「二丁目の話をしたら、また取り調べの時みたいに怒鳴るかと思ったんだが‥」 と言われ確かに取調べの時、智也の性癖の事を何度も聞かれ激高したのを思い出した。 あの時は徳永の話をまだ聞いていなかったからだ。 「あの後、俺の知らなかった智也の事色々耳にして‥」 「え、誰から?」と、山根刑事は俺の一言に急に興味を示した。 (しまった! 余計な事いっちゃったかな) 正直に言えば彼女に迷惑がかかるかもしれないと、俺は心の動揺を隠し切れないくらい焦った。 だが俺の返事に事件の新たな進展があるかもと期待の眼差しに誤魔化し切れないと観念した。 「この前、徳永さんから智也がそういうところに出入りしてたって聞きました」 と正直に話した。 「ああ‥徳永さんか」 がっかりした声音で山根刑事の声は一段とトーンを下げた。 「彼女良いとこのお嬢さんなんだね。この前、包み隠さずなんでも話してくれたよ」 新たな展開に期待しただけにその落胆ぶりは露骨だった。 「あ、そうですか」 俺は徳永から全て聞いたと言われ、何故か戸塚の顔が過った。だがそれだけだった。 「二丁目で彼と接触したと思われる人物を洗い出しているんだが‥皆、口が堅くてね」 と山根刑事は捜査上の秘密をペラペラと喋りだした。 (喋り過ぎだよ山根さん、俺なんかに不味いだろ‥)と内心焦る。 同時にさっきの若い刑事が過敏になる理由が分った気がした。 『山さん』と呼ぶくらいだ、嫌っている筈はない。寧ろ慕っているのではないか。 山根刑事のこの軽口が若い杉山の心配の種なんだろう。 その杉山が絶妙なタイミングで帰ってきた。 何の収穫もなかったようで、彼らは昼前には次の現場へと移動して行った。 結局、山根刑事が言ったように行きずりの犯行との線も考慮にいれたらしく、そうなると捜査は不特定多数に及び難航しそうに思えた。 |
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