生まれて初めて見る己の涙だった。 頬を伝う初めての感覚に一瞬呆けてしまった。 だが慌てて睦の頬に落ちた雫を拭う。 そうだ‥俺の涙など‥そんな些細な事などどうでも良かった。 腕の中で既に息絶えている睦の方が今はなにより大事だから‥。
「こ、こんな事なら‥ちゃんづけでもなんでも許してやれば良かった‥」 思わず後悔を口にするとズビっと鼻をすすった。 すると、 「ほんとに?」 なぜか聞き覚えのある声でそう問われて、 「ああ、ほんと‥にって‥えっ?」 と言いかけて俄かに信じられない気持ちで声のする先を凝視した。 そこにはいつものにっこり微笑む大きなアーモンド形の瞳とぷっくらした唇が口角を上げていた。 「お、お、お、おまっ」 と仰天の余り言葉がぶっ飛んだ。 「聖! 怖かったよぉ〜 でも絶対助けに来てくれるって‥信じてた!」 と俺の首にしがみついて来られ、ふわりとその柔かい感触に胸を締め付けられる。 だが今目の前にいる睦の姿が信じられず、もしかしたら自らの願望が成す幻影なのではと疑った。 そして思わずその首に絡まる奴の腕を引っぺがし、 「うそ‥本当に睦なのか?」 と問いただした。 「そうだよ‥なんで?」 とキョトンとした顔で首を傾げる。 「いや‥だって相手はあのジェフリーだぞ、死体にしか欲情しないっていう‥」 すると睦は行き成り笑い出す。 呆気に取られていると、 「聖‥俺‥もう‥死んでるんだぜ‥キャハハ‥これ以上どうやって死ぬんだよ‥くく」 と腹を抱えて笑い死ぬとでも言わんばかりの派手な馬鹿笑いに、 「睦‥そんなの当たり前だろ‥だが死ぬんじゃなくて、魂魄喰われて核だけになるんだぞ‥」 「えっ‥魂魄食べられちゃって‥核だけって‥どういうこと?」 とさっきまでの馬鹿笑いが一瞬にして失せ、真顔で尋ねてきた。 「ああ‥睦はまだ知らないんだったな‥さっき黄泉の入り口で案内した魂魄達も外道に喰われたら‥魂がなくなって核だけになるんだ」 「うん‥でっ‥魂無くなって核だけになると不味いの?」 とその先を聞いてきたので、 「ああ‥不味いというか‥リセットされるんだよ‥下界は様々な森羅万象から成り立っている。魂には段階があって‥核という種子からスタートして、水や空気等の無形の物質から草や木や虫といった短命のものへと生まれ変わって行くんだ」 「じゃあーリセットってもう一度、水や空気からって事?」 「そういう事だな‥水や土、木や花、そして虫と‥そうやって生まれ変わりを積み重ねていくんだ。つまり輪廻転生というやつだ」 「へぇー‥じゃあ‥俺って核になってたって事?」 「そうなんだが‥睦はまだ黄泉の通行書がないから姿もあの世のままなんだ。だから魂魄を喰われたら器だけ残って動けなくなる‥筈なんだが‥なのに‥なんでだ?」 と魂どころかすっかり元に戻っている。
(ジェフリーの野郎が魂魄を残したまま事に及んだとか‥嫌、それはない‥確かに救い出した時には既に息はなかった‥筈だ) とまるで狐につままたようで益々混乱してきた。
首を傾げて不思議に思っていると、 「あ〜あ、派手に犯ったなぁ〜 」 と行き成り割り込んできた声に驚く。 そしてその声のする頭上を見上げれば、 「シド‥」 目も覚めるような美貌の持ち主‥奴がいつ現れたのか音も無く、緑の発光する岩肌に腰掛けていた。 傍にいる睦の姿を目にすると、 「マコっちゃん無事だったんだ‥良かったじゃん」 と安気な声をかけてきた。 「よくねぇ〜よ‥」 と全く不可思議なこの状況に悪態をつくと、シドは腰掛けていた岩の天辺からひらりと舞い降りてきた。 そして俺を睨め付けると、 「なんでだ‥ジェフリー相手に無事で済んだんだぜ‥なにせ緊急指令がこっちにまで飛んできたんだからな‥」 「それにしても‥あっけなかったな。散々鬼神達を手こずらしたってのに‥」 「おまえっ、いつから見てたんだ」 一部始終を見ていたような口ぶりに憤慨する。 「お前の怒りの雄たけびと同時くらいか、辿りついたと思ったら奴が炎上してた。しかし、粉々だな‥」 と奴の残骸らしき汚物を足の先で蹴飛ばす。 「だけど珍しく本気だしちゃって‥これ回収すんの大変だぞ‥鬼神達が後始末で文句言ってこないといいけどな‥」 と相変らずこっちの話を無視する風な奴に、 「そんなのどうでもいいっ! それより聞けよ! なんで睦の奴が無事なんだ? 俺が抱き上げた時、確かに生気はなかったんだぞ!」 と摩訶不思議な現状を突きつけた。 「へぇ〜 マコッちゃん‥結界張らなかったの?」 と俺を素通りして睦に尋ねてきた。 「え‥ケッカイって?」 とこれまた睦はなにそれって感じで首を傾げる。 「あれ‥俺‥教えてなかったっけ‥気を発動して結界を張れば敵の攻撃を防ぐんだよ‥」 「‥そんなの‥聞いてない‥シド言わなかったじゃん」 「あらら‥ごめん‥だから魂魄剥離で仮死状態みたくなっちゃったんだね‥」 と二人の間延びした会話を黙って聞きていたが、ある事に気が付いた。 「おい‥シド、結界って‥アルバイトの睦じゃ使えない技だろうが‥何言ってんだ」 と思ったままを口にすると、 「何言ってんだはこっちの台詞だよ‥聖! 睦は正式に黄泉の案内人になったんだぜ」 「はぁ?」 全く寝耳に水の話に呆れ口調になった。 だが暴露した張本人のシドも意外だったのか、 「あれれ‥マコっちゃん‥まだ聖に言ってなかったの?」 と睦に詰め寄る。 睦は急に罰が悪そうにすると、「う、うん‥」と項垂れた。 「なんなんだ。どういう事なんだっ! 分るように説明しろっ!」 とすっかり茅の外の俺は怒りに声を荒げた。 腕の中で睦がビクリと身体を竦める。 「まあまあ‥聖‥そんなに怒鳴るなよ‥睦がビクついてるじゃん」 とシドが宥めてくる。 「ああ‥睦‥ごめん‥怒ってないから‥な」 とさっきまでの悲惨な痕の残る睦の体を抱きしめて、耳元で優しく囁く。 睦は返事の変わりに俺のマントをしっかり握りしめてきた。 「俺から説明するけど‥いい?」 とシドが睦に問えば、分ったというように小さく頷く。 「睦のアルバイトの件なんだけど‥事務局の方からダッドに至急対処するように通知がきたんだ」 「カナイ様に?」 「ああ‥約束してたけど‥やっぱ無理でさ‥済まない‥聖」 とシドが睦のアルバイトの事を内緒にしておくと約束した事を真摯に謝ってきた。 睦は顔を上げ、なんの事かと俺に問うように見詰めてきた。 「あれは‥いい。気にしなくて‥いずれ分る事だったから‥」 と慌てて言い繕う。 「うん、そうだな‥んで‥ダッドがマコっちゃんにもう通行手続きが出来ると告げたんだ」 「‥‥」 覚悟していたとはいえ、一瞬息を飲む。 シドは意地悪そうに口角を上げると、 「そしたら‥マコッちゃん‥なんて言ったと思う?」 と天下の宝刀でもかざすように得意満面な顔で臭わす。 「な、なんて‥言ったんだよ」 と焦らさないで欲しいとはおくびにも出さず、あくまで横柄に問う。 「なんか‥興味ないみたいじゃん‥別に聞きたくなきゃ‥」 と元来根性の悪いシドはこれ見よがしに焦らす。 「わ、悪かったよ! シド! 焦らさないで早く言え!」 奴の焦らしにとうとう我慢しきれず、恥も外聞も無く心中を曝け出す。 シドは嘲笑すると、 「へいへい‥最初っからそう言えばいいのに、相変らず意地っ張りなんだからぁ〜」 と相変らずふざけた口調で揶揄う。 そしてまんまと術中に嵌った俺は苦虫を潰したような顔で次の言葉を待つ。 「マコっちゃん‥まだここに居たいってさ‥おまけに今の自分だと足手纏いにしかならないからもっと強くなるにはどうしたらいいかって聞いたそうだぜ‥」 「え‥」 信じられないシドの言葉で頭がパニクった。 「だから‥ダッドが正式に勤務すれば色々な念術が習えるって教えたんだよ」 「でも‥悪かったな‥結界の事は‥まぁ〜 これからは聖に追々教えてもらえばいいから‥な! 睦」 とシドは悪戯っぽく睦にウインクする。 俺はさっきから鼓動が早鐘のように鳴りっぱなしだ。
(ああ‥なんか‥めちゃめちゃ嬉しいかも‥)
だが‥ 「シド‥俺‥やっぱ‥あっちに行こうと思うんだけど‥」 と睦の奴、ポツリと呟く。
(ええー 今なんて‥ 言った???)
俺は腕の中で小さくなる睦の俄かに信じられい一言に言葉を失う。 「はぁー、マコっちゃん‥どういう心境の変化?」 とシドも驚いたようで問いただす。 「だ、だって‥聖には‥俺がいても‥やっぱ‥迷惑なだけだもん‥」 と力なく口にする睦の言葉に、俺は心の中でぶんぶんと頭を振って否定していた。
(そんな事はないぞ! 絶対ないぞ! 居て良いに決まってんだろぉ〜が‥)
「聖! ちゃんと伝えないと‥睦には分んないぞ!」 とシドが茶々を入れる。
(くそっ しっかり心の中を読んできやがって‥)
こうなれば誰に対しての体裁だと開き直り、 「睦、居てくれ‥お前に‥居て欲しい」 と棒読みヨロシクで告白する。 腕の中の睦は一瞬呆けたような顔をしたが、やがて首から徐々にピンクに色づき、 「う‥うん」 と大きな目に涙をいっぱい溜めて、小刻みに頷いた。 頬を伝う雫を無意識のうちに舌で救う。 円らな睦の瞳に俺の姿が映る‥やがて自然と瞼が閉じられゆっくり顔が重なった。 「おいおい!」 とシドの嫌味など聞こえぬ振りで、何日振りかのふっくら柔かい唇を貪った。 可愛く喘ぐ睦に思わず、股間が疼く。 堪らないと思いながら、角度を変えて再び唇を重ねようとした時、くしゅんっと睦が小さく肩を揺らしてクシャミをした。 俺は慌ててコートを脱ぎ、すっかり冷え切った体にかけてやる。 「睦大丈夫か? 服はどうした?」 と鼻をぐずりながらかけたマントにすっぱり包まった睦に問いかける。 「引き裂かれちゃって、もうぐちゃぐちゃだよ‥」 と力なく笑う。 睦は覚えていないかも知れないが、その引き攣った顔からどんな酷い目に遭わされたのかとまた胸が痛んだ。 「帰ったら代えがあるから‥心配ない‥」 と告げると、 「その事なんだけど‥聖‥」 と神妙な面持ちで俺の顔を覗き込む。 「ん‥」 と何事かと視線を合わせれば、 「俺‥もう見習いでなくなったんだよね‥」 と意味深な物言いに、 「ああ‥そうだな‥」 と何気に答えると、睦の奴‥急に顔が輝き出す。 これは何かあるなと、 「だから‥?」 と大体の察しはついていたが、態とその先を促せば、 「うん‥だからもう聖と同じ神父服でいいと思うんだ‥どう?」
(はん! やっぱりな‥睦の考えそうな事だ)
得意満面な面持ちで見詰める顔が、無償に可愛く思え腹の底から笑いが込み上げてきそうになった。 だが相好が崩れないよう必死に堪え、 「ああ‥それは無理だな‥」 とにべも無く却下。 「ええ‥なんでぇ〜」 と可愛く口の先を尖らせて異議を唱えてきた。 「見習いでなくなっても‥あくまで俺の助手に変わりはない」 「そ、そんな〜 じゃあまた?‥」 「そういう事だ。一人前じゃないんだし‥規則は規則だ。諦めろ!」 ときっぱり断念させる。 「ちぇっ、また‥あの格好なのかよ‥」 と舌打し不服を顔いっぱいにして、可愛く頬を膨らませる。 だが遠くでこの遣り取りに聞き耳を立てていたシドは一人苦笑する。
(聖の奴‥ いつから助手はシスターの格好って事になってんだ) と、突っ込み所満載である。
大体そんな規則、端からあろう筈も無い。 睦にあんなコスプレを強要しているのはあくまで聖の趣味だ。 だが‥可愛い睦のシスター姿はなにも聖だけの楽しみではない。 シドにしてもそんな勿体無い事、止めさせる気は毛頭ない。
「あっ、こら! 黙ってりゃいい気になりやがって!」 と思わず悪態をつくシドは、遠くで盛っている二人に半ば呆れる。 「やんっ 聖‥だめっ‥あ‥あ、ん‥」 「こんなに尖らせて‥つんつんじゃん‥」 ぬちゃっと厭らしい音をさせて、唇に含んだ小さな突起を嘗め回す。 だが一瞬眉間に皺を寄せる睦に気がつき、あちこち点在する痣や擦り傷に障っているのが分った。 「そろそろ退散するぞ‥鬼神達がきたら煩いからな」 とさっさと切り上げると、何故か睦が不安げに見詰めてくる。 「そんな顔するな! こっちだって我慢してんだかんな!」 俺の言葉で睦は薄っすら目元を染める。
(やっぱ‥こいつ‥めちゃ可愛イィ‥帰ったらまず治療してからだな‥)
マントにしっかり包んで抱き抱え、タンッと地面を蹴ると俺が行く先に仄かな明かりが灯る。 「おーい、聖ぃー」 と呼びかけるシドの声を遠く聞きながら、闇の中へと消えていく。 一方シドは、呆気にとられた上に置き去りにされ少々剥れていた。 そろそろ鬼神達がやってくる頃だ。 とばっちりを食う前に退散しなくてはと呪文を唱えようとして、 「うわぁっ!」 闇の中からいきなり現れた手に抱きこまれた。 「離せよ! このぉ!」 といつもの悪態をつけば、 「シド‥遅いから‥迎えに‥きたよ」 と流暢な喋りは銀髪、盲目のカナイ様だ。 「って‥んんっ‥このっ! んん」 とそんな非難などお構いなしで、いつもの精気喰いに及ぶ。 それも歯列をなぞるといった芸当までして、気を高めようとする。 「やめ‥んん‥」 「子供じゃあるまいし、態々迎えになんかくんじゃねーよ!」 いつにもなくディープな口づけにさすがのシドも腰砕けになる。 「シド‥シド‥」 と甘い囁きに体を疼かせながら、それとは逆に沸々と怒りが沸いてきた。
バンッ
「あぅっ‥」 と銀髪が揺らめいて、シドに蹴られた鳩尾を押さえながら前倒しになり呻く。 「いい加減にしろっ このエロおやじ!」 いつものように怒り心頭のシドに、 「シドの‥けち‥」 これまたいつものように拗ねるカナイ様。 「どこがケチだって‥」 そこまで言いかけて‥遠くで気配を感じ、 「ダッド! ヤバイ‥鬼神達がきやがった‥急いでここを離れるぞ! 聖達のとばっちりはごめんだからな!」
とシドが早口に用件を伝えると同時にカナイはきつく抱き込むと一瞬にして姿が消え、パッと小さな玉が闇の中へと消えたいった。
辺り一面に砂塵が舞い上がり‥鬼神達がやってきた。 現場を目にした頭がやれやれと半ば諦めムードで惨状に嘆息する。 先ほど聖に声をかけた西部尉の頭だ。 もう収集もつかない有様に、ここまでの怒りを爆発させるとは聖にしては珍しいと訝る。 「そう言えば‥さっきも血相を変えていたな‥」 まさかその原因が睦だとは鬼神達には知る由もない。 魂魄により姿形が変化する黄泉の道は、今は一寸先さえ重く閉ざされている。
それは正しく地獄の亡者達を拒絶するような暗黒であった。
完
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