朦朧とする意識の中でさえ、その声音には聞き覚えがあった。 一人は笹倉‥‥。 もう一人は‥‥。
でも、なんで?
もしかして、これはまだ夢の中。 そう思いたい!
「そろそろ目を覚ます、お前はもう帰るんだ。知られたくないんだろ?」 「そうだけど‥‥翔ちゃんいなくなったら、薫はどうなるの!」 「そんなに心配なら兄弟ともども香港に連れて行くか?」 「やめてっ! そんな事したらっ!」 パシッと大きな音がして、 「っ‥!」 何かが床に倒れた。鼻先に僅かに感じる粉塵。 「いい加減にしろっ! 私に歯向うというのかっ!」 すすり泣く声?
固唾を呑んで様子を窺っていたが、さっきの粉塵のせいで鼻がムズムズする。 「クシュンッ!」 堪らずついた俺のくしゃみに一斉に振り向いた顔が、しっかり瞼の開いた目に飛び込んできた。
笹倉‥‥。 そして‥‥床に倒れたまま俺を凝視する静さん。 夢ではなかった現実に俺は愕然とした。 信じられない気持ちで、 「なんで‥‥?」 「何で奴といっしょに‥‥いるの?」 ゆっくり起き上がりながら問いただす。 驚愕で慄いた顔面蒼白の静さんが、 「しょ‥翔ちゃん‥‥」 と、狼狽えて言葉にならないようだ。 「ち、馬鹿が! いつまでもグズグズしているからだ」 笹倉には珍しく舌打ちし汚く罵る。 「秀(しゅう)ちゃん‥‥」 「だまれっ! 静馬(しずま)っ!」 笹倉の怒鳴り声に静さんは身を縮める。 「静馬って‥‥」 俺は初めて聞く名を反芻するように口にした。 「はん! 六条静馬は私の腹違いの兄だ」 「‥‥!」
六条静馬って‥もしかして静さんの事? それに秀ちゃんって‥‥やっぱ笹倉の事だよな‥‥。 それに兄弟ってなにっ! 嘘だろ、全然似てねぇじゃん。
静さんがいきなり頭を抱えて床にうずくまる。 その仕草に笹倉はせせら笑うように、 「今更だろ、静馬‥‥」 ショックを隠せない静さんを侮蔑の眼差しで見つめる。 外見からも似たところのないのに兄弟だと言う。 俺は不思議そうな顔で二人を見比べた。 その俺の様子に、 「似てないのが気になるか?」 と笹倉は嘲笑すると気になるその真相を話し始めた。 「六条は元華族の名門だ。その名の通り静馬の方が正式な血筋だ。私は外腹で出来た子だ」 「外腹?」 聞きなれない言葉に意味が分らず思わず口にしたのを笹倉は薄く笑って答えた。 「早い話が、妾の子だ。認知はされたが、すぐ縁戚の笹倉に養子に出され直系からは外された」 「こいつはこんなんだが、れっきとした六条家の長子だ」 「代々六条家は男子に恵まれず、女系で長女が婿を娶る形が何代も続いた」 「例え外腹で男子が生まれても家督争いを恐れて、直系のみとされてきた」 「だから外腹の私は元々必要とされていない存在。そして静馬は今まで男子に恵まれなかった六条家にすれば久々の男子!
大事な大事な直系の跡取り様だ」 と笹倉は静さんの事を面白そうに皮肉った。 「だが、世の中上手く行かないものだよ。その跡取り様は外側だけのまがい物で中身はこのざまでだっ!‥‥あははははは
」 完全に愚弄した笑いで、静さんを蔑(さげす)む。
居た堪れないとうずくまったままガタイのいい静さんが更に身を縮まらせて震えている。 俺は堪らず、 「黙れっ! 静さんを馬鹿にするなっ!」 「静馬っ! 聞いたか? 泣けるじゃないか‥お前の可愛い翔ちゃんが庇ってくれてるぞ」 と俺の言葉さえ茶化して愚弄する。 「『バカンス』のママを裏切って、手引きをしたというのにな」 「秀ちゃんっ!」 静さんは慌てて笹倉の言葉を遮った。 俺はその言葉で現実を突き付けられた。
そうだよ! 静さんが笹倉とここにいるって事は‥‥。 ママと兄貴には連絡してくれてないって事だ‥‥。
俺は一番大事な事に今頃気がついて茫然自失になった。 「それと残念だったな‥‥せっかく産地直送で取り寄せたのに味見する暇もなくて」 笹倉はなにかの暗示のように意味不明なことを告げた。 「?‥‥っ!」 だが、『産地直送』のヒントですぐに静さんが持参した『桃』だと分かった。 「まさか‥俺をマンションに誘き寄せる為に使ったのか!」 疑心暗鬼に口にしたが、どうやら静さんの戦慄く形相から疑いようのない事実だと知った。 「翔ちゃん‥‥ごめん‥」 落胆した顔で茫然としている俺に気付き、静さんが言葉を詰まらせながら声をかける。 「今更っ!」 俺は次々に明かされる事実に憤り、思わず静さんに怒りの矛先を向ける。 「まぁー、静は私に従ったまでだ‥」 笹倉は何もかも暴露しておいて憔悴している静さんをかばうように俺の咎めを遮った。 「笹倉と兄弟だから? そんなに奴の言う事聞かないといけない訳?」 「俺やママや兄貴騙してでも‥笹倉の命令のが絶対なのかよっ!」 俺は憤懣やる方ないと怒鳴り散らし攻め立てる。 「ごっ‥‥め‥うっ」 静さんは項垂れたまま嗚咽する。 それを庇うように、 「静は私には逆らえないんだよ」 そしてその理由を奴は語り始めた。
「2年前に父が他界して本来跡取りである静が継がなければいけない六条家の家督。主に裏の闇商売を‥‥」 「だが、静馬では心元ないと枝葉でそれぞれの分野で力を持つ親族の談合の下、私が静馬の補佐役として香港の闇ルートを
引き継ぐ事になった。静馬は実際名ばかりで、運営には全く関与していない」 「私も話を振られた当初は汚い仕事と聞いて一旦は断る心算だった‥だが断れば何が何でも静馬にお鉢が回ってくる」 「あの人と同じようにおっとり育った静馬には汚い仕事など到底無理な話だからな」 「あの人‥‥?」 「祖母だよ」 「もしかしてあのティアラの?」 「そうだ‥‥ご丁寧に鑑定書付きで返却いただいて」 笹倉は軽く口角を上げて皮肉を口にした。 「で、家督をあんたが継いだから静さんが従わなくちゃいけないって事?」 「そんな単純な事ではないがね‥力関係からすれば当たらずとも遠からずだ」 「まぁー、物事は順序立てなくてはいきなり結論を述べても理解できないと思うよ」 笹倉はそう言うと結論を急かす俺に本題はこれからだと制した。 「話を戻すが、おばあ様はおっとりと優雅な人だった。祖父があちこちに女を囲ってさえも動じないくらいの貴族としての
気品とプライドと良家の令嬢としての寛容さで」 「私のような外腹の子が本宅をうろうろしていても咎めるでもなく。静馬と同じ孫として可愛がってくださった」 「静馬と私の父は婿養子だったが、元々は六条家の分家筋で静馬の母親とは、いとこ同士だった。父も祖父と同じで好色家
でね」 話が進むにつれて静さんが何かに怯えるように両手を合わせ唇を慄かせる。 その様子に笹倉は底深い瞳の中に凶悪な色をなした。 「祖母が入院中見舞いに行った私に話してくれた。祖父の好色家としての素行ぶりを‥」 「祖母とは形だけの婚姻で、初夜のたった一度の関係で静馬の母を身ごもったと知ると‥その後は二度と本宅には寄り付か
ず、次から次へと愛人をつくり子をなし分家に養子に出すという絵に描いたような悪行三昧だったそうだ」 「それでもあの人は祖父を憎めず『愛していた』と‥‥」 笹倉は祖母を敬愛していると言いながら最後の語尾は吐き捨てるように口にする。
大好きな祖母がそんな目にあわされた事が許せないのか‥そんな目に合っても尚、愛を貫こうとする事を愚弄しているの
か‥。
「ご多分に漏れず父も祖父と全く同じ性質でね」 「静馬の母も祖母と同じ目に合っていた。嫌、それより酷いか‥‥」 「秀ちゃん!」 いよいよ核心に迫ってきたのか静さんが堪らず止めにはいる。 だが、これからが本題だと冷酷な微笑を浮かべ奴は話を続けた。 「父はあろうことか静馬の母親を本宅から追いやって私の母を招き入れたんだ。愚かな母は得意満面で本妻を気取っていた
。勿論私が跡継ぎだと信じて疑わなかった」 「静馬の母も祖母と同じにおっとりとした性格の人だったんだが、さすがに静馬を蔑(ないがし)ろにされたのが許せなかっ
たんだな‥‥あのクリスマスの日」 「秀ちゃん! もう止めて!」 静さんは悲鳴に近い声音でその先を拒んだ。 だが抵抗は容赦なく一蹴されてしまった。 「しかたないだろう‥‥起こってしまった事は‥」 そして口角をあげて嘲笑しながら残酷な事実を告げる。 「静馬の母が私の母を刺し殺したんだ‥」 「ああぁぁ‥‥っ」 静さんは悲鳴に近い声を上げると戦慄く口を押さえそのまま泣き崩れた。 奴はそんな静さんを哀れむ事もなく、その夜の悪夢を回顧するように話を続けた。 「クリスマスの日、分家筋も全て招かれた盛大なパーティーが模様された。本来本宅にいるはずの静馬親子はなぜか客扱い
で、招かれた」 「隠し持っていた果物ナイフで一突きだったよ。運の悪い事に心臓だったから女の非力でも即死に近かった」 「一瞬苦悶の顔は見せたが、もがき苦しむ間もなく大した出血もないままあっけなかった‥‥」 笹倉は母親との別離のシーンを不気味なほど淡々と語った。 「あのクリスマスの日‥母が本妻をわざわざ招きいれたのは、ある重大発表を親族を交えた席で宣告するつもりだったから
だ」 「それは既に笹倉に養子に出されていた私を六条家の戸籍に戻し跡継ぎとして認めさせる事‥だがそれを阻止する事が殺害
の動機だったというから皮肉なものだ。そうは思わないか」 笹倉から同意を求められ、 「母親が殺されたのに‥そんな酷い言い方しなくても‥」と思ったままを口にした。 奴は俺の非難がましい言い方に眉間に皺を寄せる。 「母親ね‥笹倉に養子に出し子供を手放す事になってもなんとも思わなかった女だ。私を跡継ぎにしたかったのは本妻とは
いえ、いつ別の女に取って代わられるか知れない不安定な立場を磐石にしたかっただけの事だ。あの女には子供は道具でし
かない。あれは私にとって母でも親でもない。ただの我欲むき出しの浅ましい女だ」 「殺されたのだって同情の余地はないな‥欲張り過ぎたんだ。妻の座だけで満足しておけばいいのものを‥」 笹倉はどんなに母親を罵倒しても語尾には後悔の色合いを滲ませた。 「あれと一緒だ。小さい頃に読んだイソップの童話だったか‥肉を加えた犬が、川に移った自分の姿を肉を狙った敵だと思
い吼え、大事な肉を川に落としてしまうんだ。教訓を残してくれたという点では役には立ったな」 「それで、静さんのお母さんは?‥‥」 俺は何故か容疑者である静さんの母親の安否が気になって尋ねた。 「彼女は刑務所で服役中だ」 「父はあれでも私の母を本宅に入れるくらいには愛していたんだろう。本家直系の静馬の母を助ける事もしなかった」 「彼女の本妻という立場を考えれば充分情状酌量の余地があるにも関わらず罪状を軽減される事を望まず、実刑判決となっ
たよ」 「彼女自身、父の思わぬ憎しみに異議申し立てもせず実刑を受け入れたんだ」 「私は静馬を本宅に呼び戻すと母親の罪を盾に私の下僕になるよう命令した」 「静馬は反抗する事なく絶対服従関係がそこから始まったんだ」 「静馬はどんな無理難題でも聞いた‥‥こいつがこんなになったのもある意味私のせいだ」 「‥‥?」 俺はなんの事か分らず訝る。 「毎夜私の性処理の道具だったからな」と笹倉は得意げに暴露した。 俺はあまりの衝撃に直ぐには飲み込めなかった。。 だが、禁忌の二文字が直ぐに頭の中を駆け巡り、思わず非難めいた言葉を口走る。 「お前ら‥っ! 仮にも兄弟だろっ!」 「そう、禁忌を犯す罪の意識に苦しむ静馬の顔は見ていて胸糞悪いくらい気持ちよかったよ」 笹倉は俺の非難に怯むことなく平然と神をも恐れぬ罪状を口にした。
こいつ‥‥壊れてる。
俺は返す言葉もなかった。 華族様だかなんだか知らないがそんな因習に捕らわれて家庭崩壊、ともすれば精神まで病んでいるとしか思えない異常な
人間関係にゾッとした。 親しい人々を裏切ってまで守らなければならない、相容れない繋がりがそこに存在する。 俺には到底理解する事は出来ない世界だ。 気分がが悪い‥‥吐きそうだ! どろどろした人間関係の愛憎に胸焼けがする。 相変らずの薬の副作用も相まって目眩を生じ、思わず足元をふらつかせる。 側にいた静さんが慌てて支えようと、 「翔‥ちゃん」 と差し伸べられた手を俺は思わず振り払った。 拒絶された静さんは目を見張り‥見る見る大粒の涙が床にポタポタ落ちる。 「静‥‥だからここへは来るなといったのに‥‥」 笹倉はさっきまでの侮蔑とは一変して、優しい声音で静さんの肩を包み込むように抱く。 「うん‥うっ、秀ちゃん」 静さんは肩を上下させて笹倉の胸で咽び泣いた。
この異様な関係はなんだ! 憎んでいると言う割りに笹倉の相反する行動は! それに蔑むような事を口にしておきながら時には庇うように擁護する。
俺の訝る様子に気付き、 「ゆかり‥なに? どうしてそんな目で見るんだ?」 「あんた‥静さんの事憎んでるじゃないのかよ」 「憎んでるよ」 あっさりと肯定するその返事に抱き込まれた静さんの肩が一瞬震える。 「へえー 俺には真逆に見えるんだけど‥愛してるの間違いじゃねぇの」 俺はめいっぱい皮肉ってみせた。 「もしかして‥妬いている?」 いままで一度も目にした事のないにやけた面で笹倉は見当はずれの台詞をほざいた。 「‥っ! んな訳あるかよっ!」と、ふざけた勘違いに思わず毒づく。 「ふふふ‥心配しなくても愛しているのはゆかりだけだ」 そう言って奴は静さんを離すと俺の近くまでやって来た。そして顔を近づけたと思った瞬間、唇を掠め取られた。 「なっ‥!」 一瞬の不意をつかれた歯痒さから俺は唇を噛み締めた。 見れば側にいた静さんは今のキスを気にした風でもない。 性処理の道具にしていたという異様な関係を変に邪推してしまったが、そこまで根深いものではないのかも知れない。
静寂の中‥突然携帯の着信音が鳴り響いた。
笹倉は胸ポケットで振動している携帯を取り出し、 「私だ‥‥待てここは電波が入りにくい。移動してまたこちらからかけ直す」 と告げ、携帯をきると手に握り締めたまま、 「静、見送りしたいのなら、このままここで待っていろ」 と笹倉の指示に静さんは小さく頷いた。 それを確認すると携帯の電波入りやすい入り口付近まで移動した。
やがて静さんと二人きりになる。
笹倉はというと倉庫入り口付近まで行き携帯電話で話始めた。 お互い無言のままだと辺りの空気が重苦しくなるばかりだ。 その重圧に耐えられず先に均衡を打ち破ったのは静さんだった。 「翔ちゃん‥‥どんなに謝っても許してもらえないだろうけど」 「‥‥っ!」 「秀ちゃんは本当に翔ちゃんの事を愛してるわ。絶対大事にするから」 「どうして断定出来んだよ! さっき村中ってサングラスの男が飽きるまでだって! それにその後の悲惨な末路も聞かさ
れた!」 「そんな事絶対有り得ないから!」と、静さんは前言を撤回しようとしない。 「だから何の根拠があって言い切るんだよ!」 「それは‥」 一瞬言い淀む。だが意を決して真意を語る。 「翔ちゃんがあの人に似てるから」 「あの人?」 「秀ちゃんの亡くなったお母様に‥‥似てるの」 「はぁぁぁ??」 誰が‥‥誰に似てるって?
「俺‥男なんだけど」 「うん‥そうなんだけど‥翔ちゃんが最初女装して店に出た日にね‥秀ちゃんも来店してて」 「翔ちゃん見て驚いたって‥あんまりそっくりで」 「そんなに似てんの?」 「うん‥最初秀ちゃんから聞くまではピンとこなかったんだけど」
はぁ〜、今度は単なるマザコンかよっ! てか‥‥母親がセックスの対象ってどうな訳?! やっぱ‥壊れてるよ
俺は先ほどの因習が今まさに我が身に降りかかろうとするのを知り悪寒がした。 そしてその因習に雁字搦めにされている静さんに呪縛から逃れる気はないのかと問う。 「静さん、あんたこのままでいいのか? 一生笹倉の下僕で」 「秀ちゃんは下僕っていうけど‥‥私はそうは思ってないから」 「じゃあどう思ってるわけ?」 「‥‥翔ちゃんは軽蔑するだろうけど‥」 「愛して‥るの」 「兄弟として?」 静さんはうっすら笑って首を振って否定した。 俺は目を見開いて、二の句が告げず愕然とする。 「愛してるって! じゃああいつが俺に執着するのは許せるのかよ!」 「うん‥信じられないだろうけどその段階はとうに過ぎたの」 「六条の家に連れ戻されてすぐだった関係を強要されたのは。父や使用人のいる前でも平然と下僕扱いで‥」 「そうやって何度も肌を重ねるうちにね‥私自身の中で理解できない感情が芽生えて、それがなんなのか分らなかったんだ
けど」 「ある日目の前で、彼女とのメイクラブを見せ付けられて嫉妬で変になりそうになって突然それが禁忌の感情だと分ったの
」 「愛情だと分ってからは生き地獄だった‥‥。まだ相手が女の子だったら我慢できた。だってどうやったって張り合う対象
外だもの。だけどある日とうとう綺麗な男の子を連れてきて目の前で‥‥」 「初めて絶望して‥‥生きて行く意味がなくなっちゃって‥‥」 その後の言葉が想像できて俺は思わず生唾を飲み込んだ。 「気がついたら病院のベッドで、あ〜あ、楽になりそこなっちゃったってがっかりしてたら側にいた秀ちゃんから怒鳴られ
たの」 「俺より先に死ぬな! 命令だって」 「憎しみの対象がなくなるのが嫌なだけだと分っていても嬉しかったの」 「必要とされている事が‥‥」 「静さん‥‥」 痛々しいまでの話に胸が詰まる。 「ほとぼりが冷めるとまた相手をとっかえひっかえで嫌がらせが始まったんだけど、すっかり反応しなくなった私に面白く
なくなったんでしょうね。そのうち家には連れてこくなったわ」 「遊びの相手には事欠かなかったようだけど、誰に対しても気薄であまり興味を示さなかったのに」 「あの日翔ちゃんを目にした時、珍しく興奮してどうしても手に入れたいって、そんなに執着するのは初めてだったから本
気なんだって思えたわ」 「だから‥‥藤堂さんの事は聞いてたけど秀ちゃんの思いを成就させたくて」 「藤堂は関係ないじゃん!」と、その名を俺はすぐに否定した。 「誤魔化さないで! こんな事になったけど‥本当に翔ちゃんは弟みたいに可愛いのよ。その翔ちゃんの気持ちがわからな
いと思うの!」 俺は反論できず、押し黙る。 「それに藤堂さんとの事正直に話してくれたし‥秀ちゃんには勿論言ってないわ‥知れば嫉妬に狂ってどんな暴挙に及ぶか
しれないもの」 俺は静さんの言葉が満更でないことは想像できた。 あの鬼畜な男の事だ。恐らく静さんの懸念はあたっているだろう。 それから敢えてそれを笹倉に報告しなかったのは俺の安否を気遣っての事だ。 そして静さんとの信頼関係がまだ存在するのだと思わずにいられなかった。 その時、静さんがハッとするように笹倉の方に目線を向けた。 どうやら用件が終わったのか携帯を胸ポケットに仕舞いながらこちらに向かってゆっくり歩いてくる。 「だから、絶対藤堂さんとの事は悟られないようにね」 静さんは気付かれないように口早で忠告してくれた。 俺はばれない程度に『わかった』と小さく頷いた。 「二人で何の話をしていたんだ」 笹倉は勘ぐるような目線で俺と静さんを交互に凝視する。 「べ、別にたいしたことじゃないわ」 静さんは曖昧に言葉を濁し誤魔化した。 「まあいい‥間もなく出航の時間だ」と、笹倉は時計を見ながら最後通告を知らせる。 とうとうタイムリミットになった。 このまま香港に連れて行かれちゃうんだ‥‥。 兄貴やママや友達には会えなくなるのは辛いけど‥。 とりあえず笹倉は大事にしてくれるってことだし。 それもいいか‥‥。 そうすっかりあきらめムードに滴っているとなにやら倉庫の出入り口が騒々しい。 笹倉も気がつき、 「村中! おい! どうした?」 出入り口付近で数人が揉めているらしい争う声音が倉庫内に響く。 照明がないので、薄暗い中なにがどうなっているのかまだ把握できない。 「誰だ?!」 業を煮やして笹倉が怒鳴る。 「笹倉さっ!」 例のサングラスの男がもがきながらも身の危険を知らせる。 やがて、照明の届く範囲までシルエットだけだった人影が顕になってくる。 どうやらサングラスの男は既に何者かに捕らわれの身となり、そのままこちらに連れて来られているようだ。 男を羽交い絞めして伴っている者のシルエットが心許無い豆電球でも判別出来るほどの距離に近づいてきた。 「お前はっ!」
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